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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

死と向き合って 11(3/3ページ)

2012年2月7日付 中外日報

役所に昭和62年に入る前は銀行員だった。「門徒の少ない寺だけでは食べられないから」と言いつつ、「人の死を待つのじゃなく、自分の食いぶちくらい自分で稼げ」と自らも勤め人だった父親から諭されたことを明かす。だがそれは「職業」の問題ではない。

「社会で人々を導くのが坊さん。そのためには自分も社会の中で一員として仕事をし、いろんな情報を集めネットワークを築くことで世間を知ることが大事だ。いい暮らしをしたいという自分の欲望のために宗教を仕事に使うな、伽藍を構えて閉じこもってるんじゃないよ、と言いたい」

そう木村さんが言うのは、「お釈迦様は遊行し、親鸞聖人も社会に関わり続けた」との考えからだ。

「社会活動」「社会参加」。そのこと自体はいいが「もともと坊さんがそれほど大したものじゃない。ボランティアではなく、さまざまな現場で日常の活動として仕事をするのが当たり前」という信念が自分にも当てはまる。市職員としての被災者への寄り添いはそこから来ていたのだ。

役所4階にある同課、その課長席の後方、書類の山に置いたヘルメット越しに窓からかなたの自坊が見える。その海側には廃虚が広がっている。

閖上の海岸近くにあり、数多くの遺体を火葬し続けた斎場は壁が崩れ、天井も抜けたままだ。小雨の中、収骨が行われており、炉の前で80人近い親族縁者が読経に聞き入っていた。骨葬が一般的な東北では、この後に葬式が行われる。

近くの閖上小学校は津波に洗われた校舎に泥が積もり、懸命に逃げた児童らの学用品が散乱していた。体育館の壁、地震直後の「午後2時47分」で止まった大時計の下に、こんな児童会歌が掲げられている。「広い大きい太平洋に チビッ子丸で乗り出すよ……」

小高い丘「日和山」の頂上からは大海原が見えた。犠牲者供養の石仏や花束が雨に濡れ、卒塔婆の向こうに広がる見渡す限りの荒野に、壊滅した寺の建物がかすんでいる。寺院の復興もまた、「死」と共にしかないだろう。

(北村敏泰)