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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

原発さえなければ 5(2/3ページ)

2012年3月1日付 中外日報

何とか遺族の無念に寄り添える日が来たのは5月だった。移転先の役場に「合同慰霊をすんならぜひ拝ませてほしい」と申し入れると、「供養してもらえたらありがたい」と返された。

同じく家族を亡くした被災者である役場職員の心遣いが携帯電話の向こうから伝わる。国が町民の一時帰宅を初めて許可した26日と決まった。津波被害を受けた海沿いの地区を真っ先に、帰宅期間の初日に設定したのも役場の配慮だった。

63世帯111人の町民が8キロ離れた隣の南相馬市の馬事公苑に集合し、防護服を着込んでバスで町入りした。まず棚塩地区に。空き地で会議机に黒布をかけた台に香炉が載せられ、遺族らが次々花束を置いて焼香した。

青田住職は白いビニールのかっぱのような防護服の上から木欄色の衣と袈裟を着けていた。鮮やかな赤黄色。そして頭にはビニールのシャワーキャップ風の帽子、マスクに布とゴムの二重の手袋は全員同じだ。

強い日差しの下で、用意した卒塔婆を立てて般若心経を読み、光明真言を唱えた。すすり泣きが聞こえる。皆が悲愴な面持ちで無口だった。家族全員を亡くした少年が目をうつろにしてたたずんでいる。まだ10代だ。住職はマスクの下で嗚咽を押し殺した。

放射線の心配から滞在は10分程度。次の請戸地区に向かった。供養した3カ所で、住民らは分かれて先に着き待っていた。滞在時間は限られているにもかかわらず、懇ろに弔った後にそれぞれの自宅に散った。

町の様子は変わり果てていた。漁船が道端に打ち上がっている。人々はそれでも自宅跡の瓦礫を掘り返して遺品を捜した。わずか70センチ四方の持ち出し用ポリ袋に、親や先祖の位牌を入れる住民が多かった。帰宅参加者の半数31世帯は、もっぱら慰霊が目的だった。

19度以下と初夏にしては例年より気温が低かったが、蒸れて体中汗ばみ、青田住職は読経にマスクを外したくなった。ゴム手袋では数珠も鈴も扱いにくく、まだるっこしかった。異様な姿、形だ。