ニュース画像
敬白文を読み上げ決意を示す菅管長
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版
トップ> いのち寄り添うリスト> 原発さえなければ 10
いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

原発さえなければ 10(3/3ページ)

2012年3月22日付 中外日報

物事の本質に迫る。その信仰の核心が、震災と原発事故での被災を通じてより強まったと話す。見えなくても、五感で捉えられなくても存在するものがある。「魂や霊は何も宗教がつくり上げたものじゃなく、あるのです。今、人が亡くなっても、また会えるかもしれないのです」。それが、石川住職の「いのちに寄り添う」姿勢の根幹だ。

それと同じ透徹した見方で原発問題もその根底にある文明のゆがみ、人間の過ちを見通すべきだと考えている。原発事故への「怒り」も、そのような宗教的姿勢からこそ来ていることが伺えた。

夏以降、離散していた檀家が少しは帰ってきたが、まだまだ元には戻らない。汚染や風評によって地元で生活の糧がない。県外に出た人の娘が幼稚園に入ったら園児に「放射能ちゃん」と呼ばれたという。帰りたくても家は津波で流された。東京では水道水から放射性物質が検出されて大騒ぎになったのに、もっとひどいはずの地元は情報もなく、住民は「見捨てられている」と感じる。

檀家から「戻ろうか」と相談されたが、住職は「子供がいるならやめた方がいい」と答えた。被ばくの心配で、以前は月に30件はあった法事が激減し、恒例の正月の祈祷も寂しかった。

だが、事故直後の混乱期に残った檀家が切羽詰まった電話で「住職、いてくれたんだね」と喜んでくれたことを忘れない。たまの墓参りや供養などどうしても用事がある時しか人は来なくなった。でも、その時は必ず寺にいなくてはと思う。

「そこにいるから住職です」。全ての「日常」が奪われた状況にあって、一見陳腐にも見えていた「日常」を粛々と行うことがいかに大事か。その本質が立ち上っている。

(北村敏泰)