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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

原発さえなければ 13(2/3ページ)

2012年3月29日付 中外日報

郊外の岩屋寺の周囲は田畑が多い。農家は玄関も窓もぴたりと閉ざし、大きなビニールハウスの入り口を封じているのが目立つ。そんな中で、高齢の男性がマスクをして畑を耕していた。不安にさらされながらも故郷に留まって生き抜く人々もいるのだ。

市街地の中心部にある「原町中央産婦人科医院」では、元気な赤ちゃんの声が聞こえた。震災以降、昨年末までに30人の赤ん坊が生まれた。高橋亨平院長(72)はこの町で40年近く産科医を続ける。取り上げた子が町じゅうにおり、成長して町を支える働き手も多い。それが喜びだった。

だが、地震翌日から断水した医院は負傷者があふれた。被曝の恐怖で住民が続々避難し、他の医院も閉まった。知人から「早く逃げろ」と言われる。だが、「俺以外に誰が患者を診るんだ」と治療を続けた。

そして、わずかに残った医師として県立高校体育館の遺体安置所へ検視に訪れ、出産を世話した母親やよく知る町の人たちの変わり果てた姿に胸を突かれた。人々の無念を思い、「ほかに選択肢はない」と留まった。

しばらくして妊婦が受診に来る。身重で移転できなかったり、避難地の病院で断られた女性もいた。遠方から夫と来た若い母親は、自身が高橋院長に取り上げられ、出産はここでと決めていた。

12月15日の院長の誕生日に産まれた赤ん坊もいる。大みそかも正月5日も、バレンタインデーにもかわいい産声が上がった。当初、このままでは町が廃虚になると心が痛んだ院長は「よくぞこの地に、この時に産まれてきてくれた、ありがとうと言いたいです」。

高橋院長は、技術者らと連携して「被曝医療研究会」を立ち上げ、フィルムバッジを妊婦や子供に配り、被曝低減の方法や除染の研究にも奔走している。だがその中で体調を崩し、県立病院で精密検査を受けた。悪性の直腸がん。肺にも転移し「余命数カ月」と宣告された。合間を見て入院したが血管も損傷していて手術さえできなかった。

しかし抗がん剤治療に耐えながら、なお診療を続ける。そんな満身創痍の院長が留まっているのをテレビで見て戻った住民もいる。「私がいることで安心感を示すことができます。普段からここにいる。そのことに意味がある」。その言葉はまるで宗教者のようだ。