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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

駆け付けた人々 3(3/3ページ)

2012年5月26日付 中外日報

高橋住職は、大量死によって「メメント・モリ(死を想え)」の刃を突き付けられた人間が自らの死を視野に今の生き方を捉え直す、つまり確固とした死生観こそが重要だという。「その死生観に絡まねばならない宗教が、現状は心もとないですが」。では、宗教はいかに存在感を示すのか。

「僧侶は訓練ができていなくては。そしてそこに発心がなければならない」。それは当然、行動に表れる。「いかにも宗教者らしく」ではなく、それは胸にしまって。泥かきでも何でもだ。「坊さんが家業化していて、心のケアの専門家であるはずがない。他者の苦しみを推し量る立場にない」と住職は厳しい。

「心だけケアするなどあり得ない。『困った事ありませんか』と尋ねることじゃなく、一緒にいて生きるための作業を積み重ねることだ」

その中で初めて悩みや問題点が出てくれば、きちんとした生活支援のために、NPOなどとも互角に協力し、場合によっては専門家につなぐようなネットワークを広げる力量。そしてタフさが要求される。宮城・気仙沼では福祉施設の牧師が、流れてきた魚や食料を集めては調理し、避難者の命をつないだという。

その源が発心、信仰だと断言する。「発心とは、いのちのあり方が分かっているか、『縁起』が実際に分かるかということ」。それがあれば現場での体験からなすべき任務も見えるという。

高橋住職の発心の原点は、南太平洋の戦没者慰霊行の現場で、そしてチェルノブイリ、タイのエイズホスピスで悲惨な状況を「見てしまった」ことにある。そこで目と耳をふさぐことなく足を踏み出したのは確たる信仰があったからだ。

「人々がどう生きていくかに答えるのが仏教」。支援活動の中で仏教の素晴らしさがあらためて実感でき、長野の自坊での昨年の盆、一周忌に当たる今年の花まつりでも何日間もの法要を組んだ。檀家から100万円もの義援金が集まった。

震災後、仏教界全体が問われていると思う。「仏教の大切さが今、伝わらなければ、仏教は社会から見放される」。僧侶はまず現場に入り、人々の苦に「共苦」して、「釈尊ならどうされたか」と自問するところから始めよう、そう呼び掛ける。

(北村敏泰)