ニュース画像
門信徒大会で基調講演を行う内藤勧学
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版
トップ> いのち寄り添うリスト> 駆け付けた人々 12
いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

駆け付けた人々 12(2/3ページ)

2012年6月26日付 中外日報

「どこが宗教者らしいか」と論議する前に動く。「坊さんは伝道者ですが、悟ったわけではない」。闇の中、目指す所は遠くの灯台の灯つまり釈迦で、そこまでの暗い道で足元を照らしてくれるのが祖師。「それになかなか気付かないのが私たち凡夫です。自分が灯台の灯になった気になって、胡坐をかいていてはいけない」

偏袒右肩。僧侶の袈裟が左掛けなのは、出した右腕で仕事がしやすいようにとの意味だという。

だが、「していることは全て僧侶の仕事」という住職の胸の奥には、宗教者としての「霊性」が秘められていた。震災で無念のうちに亡くなった方々が自分を引き寄せてくれる。この人たちをきちんと供養しなければ世間にまた悲しみが続くかもしれない、と言う。

「私が坊さんだから、霊魂が乗り移るのです。現地に行くたびにそれを頂いて帰り、鎮魂供養するのです」。そんなことを初めて語った。それは、戻ってから読経することも、現場で作業しながら心の中で題目を唱えることも同じ。そこに仏教者としてのアイデンティティーの核心があるとうかがえた。

「私がそこへ行くには必然がある」。例えば法華経などは災害を予見し人間の処し方も説くが、人々に言葉で「被災の意味」を説いたところで納得できるものではない。「だから共に苦しみ、行いで寄り添うしかないのです」

もともと、弱い部分に何かを構築し、支えがないと生きていけないのが人間。「そこに添うのが僧伽、比丘です。仏教は伝統的に信仰によって肉付けされており、人間がテーマですから多くの引き出しがある」

被災地の人たちをどのように支援するか、寄り添うとはどういうことか。それに対する宗教者の姿勢について、地元の宗教者や駆け付けた人々を含め、数多くの機会にさまざまな論議が巻き起こっている。