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いのち寄り添う ― 大震災 苦の現場から

心のケア・宗教の力 18(3/3ページ)

2012年10月30日付 中外日報

宗教者による「心のケア」には、「応答」が含まれるということか。「ひたすら傾聴することから一歩踏み出て、言うべきことを言う」と語った「心の相談室」の川上直哉牧師(38)は、「言うことによって生じ得るリスクをどのように回避するのか」という質問に、「宗教者は一歩を踏み出す覚悟と能力を求められるが、その責任を一人で担わなければならない。その点では孤独に耐えねばなりません」と話す。

そのような能力を各宗教の修行で獲得したはずの宗教者が、傾聴・ケアの研修を受けると、「こんなに難しいのか」と動かなくなってしまう。そんな例を引き、「私たちは『相談をする人=被災者は弱い』という勘違いをしている。実際には『弱い』のは相談を受けケアする側なのです」。

ケア者が的外れな応答をすれば相談者は反発し、ケア者の方が動揺し挫折してしまう。結局、「リスク」があるのは実は相談者ではなく、ケア者の側だ。だから、川上牧師は「まず現場の相談者の熱にケア者が出会い、砕かれ、その中で自分の側が学ぶべき事柄を見いだし、学ぶ。この順序です」と強調した。

あくまで出発点は相談者つまり被災者であり、ケアする宗教者には浄土教でいう「凡夫」の自覚が必要ということだろう。そう自覚できることが宗教者の資質なのかもしれない。

川上牧師自身は「ささやかな経験から現場で学んだのは『無力の力』です」と言う。医療者や心理士は相談者の状況を分析し関係付けて、理論から最適な「解決」を確率論的に導き出す。だがそれが拒絶されるのが「苦しみ」の現場。なぜならその現場はその人の人生の影そのものであり、それを分析・解決することは当座の救いにはなっても、その人生を簒奪することになる、と川上牧師は思う。

そして、そうではなく人生の苦しみを共にすること、「それでも生きていきましょう」と声を掛け、「祈る」こと。「それが宗教者、牧師である自分にできることです」と。「私は苦悶しつつ、正解であるかどうかを現場に聴こうと思います」

(北村敏泰)