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第84回 1、日々の祈り 自己選択による心の修行

国際日本文化研究センター准教授磯前順一

(2012.02.21~2012.03.13)

  • 1、日々の祈り 自己選択による心の修行
  • 3、宗教研究の責任 精神の暗部を見つめる
  • 2、表現への闘い 語り得ない出来事を前に
  • 4、苦を分かち合う かけがえのないあなたへ

京都の自宅の前にある30段ばかりの石段を上ると、小さな観音堂がある。特別な信心がある訳ではないが、毎日来る老人たちにつられるようにして、なんとなくお参りに行くようになった。

半年ばかり過ぎた頃からだろうか、気持に変化が現れた。この観音堂がとても清浄な空間であることが感じられるようになったのである。

「呼ぼうと呼ぶまいと、神はここにいる」と言ったのは精神分析医C・G・ユングだが、お参りに行く人間がいるからこそ、神様が私たちの心に確かなる存在として顕現するようになる。 神様というよりは大いなる力の働きといったほうが、私の感じているものを呼び現すにはぴったりくるかもしれない。

もちろん、神様そのものは人間の目では直接見ることはできない。しかし、その力の働きに感応することで、人間はそれを仏像やお堂といった姿や形へとイメージを凝固させていく。それは確かなる心の無限さと他者性を教え示すものなのだ。

一方で、拝みに来る人がいなくなると、お堂は荒れ果て、神の気配も消えてしまう。神は人間の祈りを通してこそ現れ出るものなのだと思う。

そのうち、お堂の庭をときどき掃除するようになった。お堂が汚れていると、自分の心が汚れているような気がする。お堂は私たちの心そのもののように感じられる。 ただし、その「私」とは我欲にみちた「自我」のことではない。自我を包み込む「大我」が眼前に現出した姿がお堂なのであり、自我はその大いなる存在への扉なのだ。

私とは私だけのものでなく、大いなる力の現れでもある。その謙虚な気持を、日々のお参りは思い出させてくれる。だから他人はもちろんのこと、自分も粗末に扱ってはならないのだ。

そんななかで、自分をおだててくれる人たちに脇が甘かったなぁとも自省させられる。誠実さとは、口当たりの良いことを言って他人に取り入ることなどではないだろう。ふとした行き違いがきっかけで、今は遠く離れてしまった人たちのことをお堂でお祈りすることも多くなった。

たとえ、この世では二度と会うことがないにしても、それぞれが世界の片隅で一生懸命生きているかぎり、やはり今でも共に大いなる力によって結び合わされているのだと思う。

私の文章もまた、そんなあなたに贈る「孤独のメッセージ」なのだ。