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第92回 1、苦諦 あるいは「宗教学」の苦しみ

関西大文学部教授宮本要太郎

2012.11.20~2012.12.18

  • 1、苦諦 あるいは「宗教学」の苦しみ
  • 3、滅諦 苦を喜ぶ?
  • 2、集諦 便利だけど生きづらいのはなぜか
  • 4、道諦 「縁」を求めて

大学で、比較宗教学を教えている。文字通り、さまざまな宗教を比較し、その多様性を認識するとともに、それらに通底する何かを探り取ろうとする営みである。

この営みは同時に、そもそも「宗教」とは何かという問いを常に誘発する。ところが最近の傾向としては、この問い自体がナンセンスであるという。

宗教を定義することは難しい。とくに前世紀の終わり頃から、「宗教」(religion)という概念の近代西洋的かつプロテスタント・キリスト教的「系譜」が問題視され、その流れの中で「宗教学」の学問としての意義そのものが問い直されてきている今日、宗教を研究することは、その概念が有している限界性を意識することを離れては成り立ち得なくなってきているといってよい。宗教研究者としては苦しい立場に追い込まれているわけである。

そのような現状を認識しつつ、私自身は、宗教とは、単純化していえば、苦を喜びに変える仕組みであると考えている。断っておくが、これは「定義」ではない。むしろ、そのようなものを「宗教」と呼びたいという、私の個人的願望である。

苦諦説を持ち出すまでもなく、人生についてまともに考える者は誰でも、生は苦を離れてありえないことを知っていよう。同時に、およそ人は、苦を嫌って楽を求めるものであることも、経験的に分かっている。それは本能的なもので、自然の在り方ともいえよう。

ただし、よく考えてみると、私たちを苦しめているものは、身体的苦痛(不快感)よりも心理的・精神的な苦悩の方が、より深刻ではなかろうか。それは、高度な知性と豊かな感情とを手に入れたことと引き換えに、いわば人間に宿命づけられたことともいえる(創世記のエピソードはそのことを示唆しているのではなかろうか)。

不遜であることを詫びつつも、我流の「四諦」を展開してみたい。