ニュース画像
倒壊した浄土真宗本願寺派法城寺の鐘突き堂(むかわ町)
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

第93回 1、自然への畏敬 現世を穢土にしてはならぬ

聖観音宗浅草寺山内法善院住職塩入亮乗

2013.01.08~2013.02.05

  • 1、自然への畏敬 現世を穢土にしてはならぬ
  • 3、寄り添う 弱者がいつも犠牲になる
  • 2、社会 生活を共にし心通わせる
  • 4、進路 妄想で人生を決めるな

日本人ほど自然に対して畏敬の念を抱いてきた民族は少ないだろう。良質な水、豊かな草木に恵まれたことが「山川草木・悉有仏性」や「草木国土・悉皆成仏」の教えを受容、展開させた。そして、そうした自然に対しては謙虚に臨み、思い上がることもなかった。

自然と人間との関係は庭園の形式からも伺い知れる。すなわち、日本(ことに寺院)庭園では不思議と誰もが縁側に正座してしまう。自然と並列な立場である。いや、遠くの山を借景とすれば、見上げることにもなる。また、庭にはシンボル的な松や石が置かれるが、そこには山から神が降臨するといった観念もあった。

これに対して、神→人間→自然といった上下関係がある一神教の場合、例えば西洋の庭園は建物のバルコニーなどに立ち、隅々まで全体を見下ろす形式となる。それでは中国庭園はどうであろうか。大きく異なることは、中国庭園は離れて眺めるものではなく、そこは歩いて巡る回遊式が基本なのである。

同じ箸を使う民族でも中国は麦中心の文化であり、「麺」も「麹」も麦偏だが、米が主食の日本では「こうじ」は「糀」となった。糀は漢字ではない、「榊」などと並ぶ国字である。

不安定で手間のかかる稲作を選んだ日本人は、種播きから収穫するまで、安堵する余裕は少なかった。常に自然そのものに祈り、感謝し、敬わねば過ごせなかったのである。

ドイツ人ほど森林を歩くことが好きな国民はいないという。しかし、それは世界大戦後に焦土となった国土を見て、初めて自然の重要さに気付いたことによる。徹底したゴミの分別も日常となった。

今日、故郷に帰れないほどの放射能汚染という事態を経験した日本でありながら、種々の理由で原発への執着は強い。同じ論争はすでにドイツが長年行ったことである。

原爆が悪魔の武器であったように、原発は覚醒剤のような発電機であった。権力者の傲慢で現世を穢土にしてはならない。浄土建設にブレはあってはならないと思う。