第104回 1、自己の存在忘却 良心を意識しない現代人
大谷大大学院教授 日本仏教教育学会会長川村覚昭
2014.02.18~2014.03.25
- 1、自己の存在忘却 良心を意識しない現代人
- 3、近代教育 奪われた神仏の視点
- 2、道徳の教科化議論 仏教教育の明確化急げ
- 4、衆生と共生 日本人が失った心の広さ
最近の世相を見てつくづく驚くことは世界が虚仮不実に満ちていることである。特に社会的に信頼されている企業や人の不祥事が目立つことは問題である。
昨年10月に発覚した高級ホテルの食材の偽装は一ホテルグループに留まらずホテル業界や老舗のデパートに及んでいる。
高級ホテルはひところと違い、ずいぶん大衆化し庶民の社交の場になってきているが、それでも日常的に行ける所ではない。庶民にとっては憧れの場所であり、庶民感覚では偽装などは絶対にないと信じている場所である。それだけに今回の不祥事が与える影響は大きいと言わねばならない。
こうした偽装は、過去繰り返されてきた。耐震偽装、産地偽装、商品偽装など、挙げればきりがない。そして発覚すれば、メディアを媒介にして社会的指弾を浴びてきたが、問題は、そうした指弾を浴びてきたにもかかわらず、どうして繰り返されるのかである。
私は、ここに現代日本人の根本問題があるように思う。それは、誰しも自らの存在が見えなくなっていることである。そのため良心を意識することもない。
我々は、国際社会にまでつながる自由主義経済の複雑な網の目のなかで過激な競争にさらされており、毎日が生き残りの勝負となっている。そこでは競争の相手を意識しても自己を見ることはない。勝ちさえすればよいのである。
しかし、こうした競争意識は思わぬ落とし穴が待っている。それは、意識しないまま業縁に絡み取られ、エゴが暴発することである。
親鸞は、「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」と教えたが、そこには親鸞の良心の痛みが感じられる。しかし、現代日本人の現実は、この言葉を地で行っているのではないかと思う。そこに仏法を聞かなくなった日本人の姿が浮びあがってくる。存在忘却の第一の原因はそこにあると思う。