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時流ワイド

自死と向き合う宗教者(4/6ページ)

2012年11月22日付 中外日報

追い込まれて苦渋の選択

なぜ、これだけ多くの人が生きづらさを感じ、自ら死を選ぶのか。自死は決して、自らが望んだ結果ではない。追い込まれた末の死だ。

篠原さんは「『自殺するのは勝手』と人ごとになっている。自殺の背景には多重苦がある。苦悩を生む社会をつくったわれわれの連帯責任だ。苦悩から解放される方法論を考えてくれる、寄り添ってくれる人が減ってしまった。お金に換算できないもの、人との関わり、地域の関わりをどこかで捨ててきたのではないか」と指摘する。

仏教では、世の中は常に苦に満ちていると見なし、苦と向き合ってきた。現代と仏教が成立した時代とは社会が大きく異なるとはいえ、同じ人間であることには変わりない。孤独や不安、ストレスに満ちた社会の中で生きる人々の苦しみは今も昔も同じだ。だからこそ、できることがあるのではないか。

篠原さんは「人間の苦悩を解決するのは僧侶の第一義だ。地域社会には僧侶への信頼感がある」と、寺院が地域社会の中でコミュニティーづくりに果たす役割を挙げる。また、寺院という環境自体が相談者の心を解きほぐす役割を果たす。

自坊にやって来た相談者が30分ほど黙ったまま、縁側の風景を眺め、ほっとすると口を開き始めるのだという。篠原さんは「仏教は生きている人のための教えであり、亡くなってからでは遅いのです。生きているうちにお寺においでください」と呼び掛ける。学校の講演依頼も多く、「いのちの教育ができるのは坊さんだなぁ」と断言する。

関本さんも「袈裟を着けている時に発する言葉の重みは10倍重い」と言う。活動を通じて自らが僧侶だと強く自覚する時がある。関本さんが代表を務める「自死に向きあう関西僧侶の会」の活動の一つ、自死遺族のための自死者追悼法要だ。導師が読む表白に「仏様の前では全てのいのちが平等です」というくだりがあるが、その言葉に、それまで硬く無表情だった遺族の口から嗚咽が漏れる。自死に対する非難や否定的な言葉に苦しむ遺族の心に寄り添う言葉。「それが言えるのが僧侶です」

だが、現実は厳しい。「全ての人を救えるとは思っていない」ときっぱり。自死するという強い意志を持った人が電話してくる時がある。傾聴に徹すると、彼らは止めてほしいのではなく、無念や苦しみを伝えたいだけだということが分かってくる。そんな時でも、相手を否定しない。「私が遺書になる」と、悲痛な決意を受け止める。