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トップ> 時流ワイドリスト> 狭山事件 50年無実訴え 直聞インタビュー 石川一雄さん
時流ワイド

狭山事件 50年無実訴え
    直聞インタビュー 石川一雄さん(3/6ページ)

2013年10月10日付 中外日報

被差別部落とは知らなかった

死に目に会えなかった父に向け獄中でつづった別れの言葉
死に目に会えなかった父に向け獄中でつづった別れの言葉

事件発生から50年になりました。

やるせない気持ちになります。本はといえば、自分の不注意、不勉強とはいえ、警察官にだまされてウソの自白をした自分が悪い。だから泣き言は決して言いません。真実が明らかになるまで再審を求めていきます。獄中で糖尿病を患ってしまいましたので、1日2食で昼食は口にしません。えん罪を晴らすまで、摂生して長生きしなければならないと思っています。

近年は他の裁判でも、証拠開示の流れが出てきていますから、その流れに乗って再審が決まるのではないかと思っています。200万人以上の署名が集まっているのですから、それを検察も裁判所も軽視することはできないはずです。

半世紀の間で一番つらかったのは母親が亡くなった時ですね。母は目が悪くて1メートル先もよく見えず、当時はよく道に捨てられた空き缶が転がっていて、それでいつもケガをしてました。子ども心にもかわいそうで、うちの兄弟8人はみんなお母ちゃんっ子でした。

父親が亡くなった時は一晩かけて思いをつづったのですが、お母ちゃんの時は書けませんでした。死を知らされた時、あまりの驚きで意識を失い、4日間起きなかったそうです。刑務所にいますから葬儀に出ることもできませんでした。最後の別れに顔を見ておきたかったと今でも思います。

獄中ではどんな暮らしでしたか。

毎日3通手紙を書いていました。全国の学校の住所を調べ校長先生に宛てて。自分と同じことが再び起きてはならないとひたすら訴えました。

もともと読み書きができなかったのですが、刑務官が字を教えてくれ、その奥さんが手紙を書く便箋や切手を約10年にわたって差し入れてくれました。出所して初めてその厚意を知ったのですが、おかげで不自由なく読み書きできるようになりました。

小学校の5年まで学校に行きましたが、当時はろくに授業を聞いていないような子がたくさんいました。背負っている弟や妹が泣いたら教室を飛び出ていったり。住み込みの奉公に出て6年はまるまる学校に行きませんでした。被差別部落出身だからというわけではなく、そんな時代でした。

差別を感じたことは。

小学校1年の時、近くの床屋に行って髪を刈ってもらいながら、店のおじさんがどこから来たと聞くので家の場所を言うと、これからはもう来るなと言われました。踏切を渡った地区に行くと石を投げられたこともありました。どうしてか分かりませんでした。両親は部落差別について何も話しませんでした。

1970年ごろでしたか、部落の歴史の本を読んで、自分の育った地域がそうだと知りました。それまで部落で作った野球チームが対戦相手を探しても、近くのチームはどこも対戦してくれなかったんです。友達も、何も知らされていなかったので、なぜか分かりませんでした。石川一雄が逮捕されて、その時初めて知ったそうです。

被差別部落だと知った時は。

それはショックでした。すぐに電報で両親を呼び付けました。知っていれば心構えもできたのにと、怒りをぶつけました。両親は率直に謝りました。知らない方がいいと考えたそうです。部落のみんなでそんなことを話し合ったようでした。

親を恨みましたね。それまで自分を雇ってくれなかったのは、被差別部落出身だったからだと、字が読めるようになって分かったんです。逮捕された時も部落差別についてよく分かっていませんでした。その後、両親も差別を受けてきたのだと認識するようになって、怒りをぶつけてすまなかったと思うようになりました。