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小田川の氾濫で本堂などが3メートル以上浸水した曹洞宗源福寺(岡山県倉敷市真備町)。岡山県曹洞宗青年会の会員らが仏具や家具を搬出していた(11日)
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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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4.先人の決断学びたい

2016年3月23日付 中外日報(伝えたい忘れない-大震災から5年)

釜石市・盛岩寺

復旧した「鎮魂と平和の鐘」を心を込めて突く三宅住職(岩手県釜石市唐丹の盛岩寺で)
復旧した「鎮魂と平和の鐘」を心を込めて突く三宅住職(岩手県釜石市唐丹の盛岩寺で)

岩手県釜石市唐丹、曹洞宗盛岩寺のホームページには慶長6(1601)年創建の寺の由緒や年中行事紹介と並んでトップに、東日本大震災当時の地区の克明な被災記録が写真と共に掲載されている。「伝え残さないと教訓も消えるんです」。15年ほど前から独学と手作りでサイトを立ち上げた三宅俊禅住職(71)は強調する。あの日、地元で「昔の三陸大津波の時もここまで来なかった」と逃げずに波にのまれた人もいた。「だから、地震が来たら津波を警戒して、とにかく高い所へ走って逃げなくては」

市中心部から南へ9キロほど離れた湾に面する小集落唐丹地区では、20メートル以上の津波が防波堤をはるかに越えて突き崩し、950軒の家の3割以上が全半壊、住民27人が犠牲になった。少し高台にある盛岩寺も水没し、全滅した門前の集落のがれきが押し寄せて本堂や庫裡は柱を残すだけ、鐘楼は倒壊した。住職は外出していて難を逃れた。「震災直後は皆、目が死んでいた。私もそうだったでしょう」

そんな状況で「半歩でも前へ進み、生きてもらおう」と急ごしらえで本堂を何とか修復し、四十九日に合同葬を営んだ。その後は、様々な集まりを催しては住民を励まし、毎年3月11日には1年がかりで復旧した「鎮魂と平和の鐘」を一緒に突いて供養を続ける。

境内には、明治29(1896)年、昭和8(1933)年と2度の三陸大津波禍の碑と並んで、「唐丹の偉人」と尊敬を集める柴琢治の墓がある。明治の津波の時、30歳だった村の診療所医師の琢治は、村民の6割が犠牲になる惨状に自宅を開放して負傷者を治療し、死亡した村長に代わって救援物資配給などに奔走した。

2年後に村長に選ばれ、住宅建設や漁船整備など復興の指揮を執ったが、補助も少なく財源不足に直面。そこで琢治は近くの国有林1万5千本を当局に無断で伐採し資金に充てたのだ。「赤ひげ先生みたいな、思い切りのいい人だったんですね」。前住職からよくその話を伝え聞いた三宅住職の口調に力がこもる。

当然警察に追われた琢治を、しかし村人たちは食料を届けて山中にかくまい、結局は「私利私欲ではない」とその後に無罪放免となった。人々の信頼を集めた琢治は、昭和大津波の際も人命救助に尽くす。亡くなった時は盛岩寺で前住職の導師によって盛大な葬儀が営まれ、その後も毎年正月には村人が柴家と寺に年始に行く習慣が続いた。

だがこの話を、住職は単なる「伝説」にはしたくない。「現在も復興のために強力なリーダーシップが必要だということですよ」と、墓石を見つめた。昭和津波の際は、村人が団結して流された食料や衣服を集めて分配し、漁船や託児所も協力して調達した。「当時はしっかり復興計画があり、公的貸し付けで家もすぐ再建できた。今はオリンピックで資材さえないのです」。三宅住職は住民の気持ちを代弁する。

古くからの檀家にも笑顔が戻ったが、一対一で話すと苦悩を打ち明ける。70代の女性は流された自宅を自費で再建したいが、規制がかかって仮設住宅暮らしが続く。「仮設でだけは葬式されたくねえ」と、結局は地区を出て遠くの息子宅に移った。遠方からの墓参は苦になるだろうと、先祖の墓の改葬を説明した。そんな家が7軒に上った。

なかなか前が見えない。被災者のアンケートを何度しても、そのたびに気持ちが変わっているという。「行政のリードが遅れると生活の自力再建ができずに出て行かざるを得ない。村は廃れます」。指導力とスピードアップが重要だと訴える三宅住職には、現代の柴琢治の姿はどこにも見えない。

「自分たちの故郷の安全はまず自分たちが」。昭和大津波の後、多くの住宅が高台へ強制移転となり、港から離れた場所に移った住民からは強い不満が出た。だが今回の震災でその家々は助かり、その後に低い土地に住んだ分家の人たちが大きな被害を受けた。「それに、『津波てんでんこ』って言いますが、弱い人を皆で助けるという心構えも大事です」

「これだけの犠牲が出た教訓を必ず伝える」。そう繰り返す住職は、催しやインターネットなどで様々に発信し続ける。それが地区の寺を預かる僧侶の務めだと信じている。

(北村敏泰)