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7.人々が集う場に開放

2016年4月1日付 中外日報(伝えたい忘れない-大震災から5年)

気仙沼市・青龍寺

海岸近くには5年たった今も建物の残骸が残ったままだ(宮城県気仙沼市で)
海岸近くには5年たった今も建物の残骸が残ったままだ(宮城県気仙沼市で)

5年前に多くの避難者を受け入れた宮城県気仙沼市の曹洞宗青龍寺ではこの3月11日、慰霊法要が営まれ、いつもの「避難者同窓会」も開かれた。

あの日、高台にある鉄筋4階建ての寺には50人以上が逃げてきた。備蓄水で非常用の米30キロをかゆにのばして数日しのぎ、浸水した近くの飲食店が持ってきてくれた食材を分け合ってろうそくの明かりで食べた。4日目からは朝課を皆で行い、その後は犠牲者の葬儀ラッシュ。工藤霊龍住職(52)は1カ月半ほどして顔を見た友人からストレスを指摘されるまで、自分でも過労に気付かないような激務の日々だった。

そんな中で住職は、皆が集まる2階広間ではできるだけ楽しく過ごすことを心掛けた。いいことは大げさに喜び、「誰々さん宅に今日、電気屋さんが来た」と全員で喝采する。「希望を示すのが僧侶の務め」と言うが、3階の本堂では遺族から悲しみを受け止めて心が沈む、という落差に打ちひしがれそうだった。どちらもが「頼られている」という実感。「言葉で言えば『四摂法』、菩薩行ですが、それはあくまで結果でした」と語る。

その後の毎年、「避難者同窓会」は何度も開かれた。復興にはまだまだ遠い暮らしの中で、集まってくる住民たちは当時の話をしながら互いに励まし合う。住職が相づちを打つ。にぎわいを取り戻したいと震災の年の夏に地蔵祭を、早稲田大学生のボランティアの助けも借りて催したところ、以前にない500人以上の人出となった。「皆さん、ここへ来たら誰かに会えると思っているのです」。住職も、共に尽くしてきた妻佳子さん(43)も、「寺はつながりの場」ということが身に染みた。

創建300年の青龍寺は無住だった時代もあり、先々代の時に地区の人々が集まる寺となった。映画会や華道教室など様々な催しを開き、工藤住職が地蔵祭を始めたのも「開かれた寺というより必要とされる寺でありたい」一心だった。檀家や町内同士の間にあったわだかまりも、25年続けそして震災を経て皆が心を寄せ合う中で解消された、と感じている。

青龍寺をはじめ被災地の宗教施設などを調査しながら同市の復興をサポートする大阪大大学院の稲場圭信教授(宗教学)(46)は「気仙沼の寺院の力はすごい」と評価する。5年間通い続ける中で、現地では新たな生活に踏み出そうとする人々と、気力さえなくした人たちとの二極化が進んでいると感じる。

「苦しい思いを吐き出す機会がない。例えば外部の人間が応援に行って伴走することも重要です」。何とかしなくてはという考えは、学生院生たちが2013年から毎年赴いて地元の人々と交流する「未来共生プログラム」となった。「つながり」を作り広げるフィールドワーク研修だ。

夏期などに1週間ほど、7、8人が参加し、仮設住宅や商店街、行政、支援団体そして寺社を訪ねる。現場に足を運ぶことで学生たちは被災の現実に衝撃を受け、住民と深く接することで大きな学びを得る、と稲場教授。先輩から引き継ぎ積み重ねた人間関係で学生らが住民から「社会に出ても頑張れ」と勇気づけられることも多いという。

青龍寺では昨年8月、食事を囲みながら工藤住職夫妻や「同窓会」メンバーから当時の話を聞いた。震災前は見も知らなかった人同士の共同生活の苦労、医療の不備で病人を北海道までヘリコプターで搬送しなければならなかったエピソード、また「元気に遊ぶ子供の姿で避難所の雰囲気が明るくなり、救われた」との住民の話が若者の心に染み込んだ。ベランダで「眺めがいいですね」と言うと、男性が「そうだね、でも何でこういう眺めになったのかを考えるとね……」とつぶやき返したことに、女子院生は、肩の力が抜けた気持ちの通い合いを実感した。

学生らがまとめた報告書には、「避難者同窓会」のような地元の人たち同士のつながり、復興に向けて新たなつながりを作る試み、そして自分たちのような外部からの支えとのつながりが熱く述べられている。稲場教授は「ただ一度訪問するだけでなく継続した関係こそが重要で支えになる、ということを理解してくれた」と評価する。そして学生たちは主張する。「寺は人々が集う場」「公と私の狭間にある寺社の役割を再認識した」と。

(北村敏泰)