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12.苦悩吐露し心安らぐ

2016年4月20日付 中外日報(伝えたい忘れない-大震災から5年)

「閖上の記憶」館

津波に破壊された地区の航空写真を示しながら当時の状況を語る小齋さん(宮城県名取市の「閖上の記憶」館で)
津波に破壊された地区の航空写真を示しながら当時の状況を語る小齋さん(宮城県名取市の「閖上の記憶」館で)

宮城県名取市役所では、ロビーにかつて張り出されていた夥しい震災犠牲者の名簿はなく、生活相談窓口には市民が次々訪れる。海岸沿いの閖上地区は、がれきや打ち上げられた船は全て撤去され、田畑やイチゴのハウスが復活している。だが小高い場所からは所々に建設中のビルや仮設工事事務所が見えるだけで、見渡す限りの更地が広がる。色あせた卒塔婆を祭壇代わりに今も祈りの場となっているこの日和山の麓に、プレハブの「閖上の記憶」館がある。被災した市民が震災を語り伝える拠点だ。

900人以上が亡くなった同地区で、津波禍の教訓を残し、離散した住民が集い、いのちの大切さを学ぶ防災教育の場として、2012年4月に開設された。主な活動は「語り部」と被災現場の案内ガイドで、これまでに全国から6万人以上が来訪している。

映像や写真など資料が展示された館内を案内してくれた館長の小齋正義さん(74)は、津波で隣近所が全滅した衝撃と「なぜ自分だけ生き残ったのか」という煩悶が高じ、地元で支援活動を続ける桑山紀彦医師(52)の心療内科医院を受診。この施設の発案者である同医師の「苦悩を言葉で吐き出した方がいい」との助言で語り部になった。

海岸から1・5キロの自宅は柱1本も残さず流された。あの日、津波警報で妻(67)と家を飛び出すと液状化した地面から水が噴き出していた。近くの指定避難所である閖上公民館に着いたが超満員。警報が「波高10メートル」に変わると恐怖感で胸が苦しくなり、離れた3階建ての閖上中へ向かった。地震でトレーラーから積み荷のパネルが落下し、乗用車2台が運転手ごと押しつぶされるなどして道路は大渋滞。車を諦め手をつないで走って逃げた。「結果論ですがそれで助かった。車の人たちは全滅でした」

閖上中も人だらけで、屋上への階段のドアが施錠されていて踊り場がパニックになっている。めちゃくちゃになった職員室から教員が何とか鍵を見つけ出し屋上へ出た時、巨大な黒い波が住宅街を押しつぶして土煙を上げながら向かって来るのが見えた。多くの人がのみ込まれていた。

地獄の体験を話す小齋さんは比較的落ち着いている。だが、「なぜもっと周りの人にも呼び掛けて助けられなかったのか。救助活動をして亡くなった消防団員もいるのに」と口にすると表情が消えた。「年月がたっても、あの人もこの人も、知った人がいなくなっていることにふと気付く。あの1週間前に酒を飲んだ友人も、朝『おはよう』と挨拶した人……」。その声が震えた。

仮設住宅で生活が少し落ち着いても、小齋さんは罪悪感で眠れないこともあるという。多くの被災者が心に重荷を抱え込む。その体験はそれぞれに複雑な苦悩に満ちている。避難ひとつとっても、結果として少し高い所にある同公民館の2階は水没を免れ、居残った何人かは助かった。

逆に、そこから中学校へ向かう途中で間に合わずに津波に巻き込まれた人が多かった。誰かが中学校への移動を呼び掛けたのか、小齋さんも聞いた記憶があるその“指示”を、どんな経過でどの機関が出したのか。家族を失った人たちに不信感が広がっている。

重苦しい悔悟が遺族にのしかかる。「悲しい記憶にふたをするのではなく、系統立てて物語ることで心の安定にもつながり、トラウマになるのを回避できる」。そう訴えて人々の気持ちを支えてきた桑山医師。その勧めもあり、5年たってようやく口を開くことができた人も含めて語り部は8人になった。

小齋さんの胸に知人らの面影が浮かぶ。近所の真言宗智山派観音寺の副住職、惠美進英さん(当時63歳)はジョギング仲間で、太平洋を見ながら一緒によく汗を流した。進英さんは兄の住職を支えるために勤めを早期退職して得度した。津波で全壊した寺もろとも流された。過去帳を取りに戻ったとみられている。

小齋さんは一周忌に京都の総本山智積院に参ったが、「あんなことになり、世の中に神も仏もないと思う」と僧侶に打ち明けた。するとその僧は「確かにそう思うかもしれませんが、ここへ来られたのは仏様の救いを求めてのことでしょう?」と返した。「ああ、そうだったんだ。それが支えなんだ」。進英さんが、仏が背中をそっと押してくれたような気がした。

(北村敏泰)