ニュース画像
江川会長を導師に営まれた世界平和祈願法要(大般若転読)
主な連載 過去の連載
エンディングへの備え
時代を生きる 宗教を語る
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

18.「負げねぇ」思い共通

2016年5月20日付 中外日報(伝えたい忘れない-大震災から5年)

飯舘村・綿津見神社

神社に一人残り、今日も神前に供物をそろえる多田宮司(福島県飯舘村、綿津見神社で)
神社に一人残り、今日も神前に供物をそろえる多田宮司(福島県飯舘村、綿津見神社で)

春に向かう福島県飯舘村の田畑にはまだ積雪が残っていた。その中に、除染作業で出た膨大な量の汚染土などを詰めた黒い袋「フレコンバッグ」が何千何万も、3階建てビルほどの高さに積み上げられている。異様な光景の中で放射線モニタリングポストの設置工事が各所で進められていた。

福島第1原発事故で出た大量の汚染物は、汚染土だけでも東京ドーム8杯分にも当たる約1千万立方メートル。今後、最大2200万立方メートルになるとみられ、国はこれを総工費1・1兆円で双葉・大熊町に設置する中間貯蔵施設に移す計画だ。だが用地取得は2月下旬で全体の約1%しか進んでおらず、ほとんどの量が各地の仮置き場に置かれたまま。それは住民の生活空間に近接する場所だ。

そんな飯舘村のほぼ中央にある綿津見神社の多田宏宮司(69)は「避難せずに残って良かった。事故は現在進行形ですが」ときっぱり言い切った。宮司は、事故後の2011年4月の国の全村避難指示決定に対し、家族を同県伊達市の見なし仮設住宅に転居させたが、自らは村にいて神社を守り続ける道を選んだ。不退転の決意というよりは、悩んだ末だった。

居残れば被ばくの危険は大きい。来る日も来る日も毎朝、神前に米と酒や塩を供えて祝詞を奏上する日供祭を営みながら考え続けた。「自分は田舎の神主として村の皆の相談事に乗ってきた。避難する村人がこれまで以上に困った時、誰が支えるのか」。実際、神事より身の上や家庭内の問題に至るまで人々の悩み事を聴くことが多かったこれまでの日々が浮かび、村を出ることをやめた。

ほぼ無人になり、夜は真っ暗な村で一人暮らし、誰とも会わない日も。参拝が絶えれば神社の経営にも関わる。一時は周囲が毎時5マイクロシーベルトの高線量で、社殿は国の除染対象だが、鎮守の森は手付かずだ。春に予定されていた、3年に一度近郷近在から参詣者が押し寄せる例大祭も中止に追い込まれた。

だが、避難先で家を新築する氏子が地鎮祭を依頼してきた。「宮司がここにいてくれてほっとした」。新車のお祓い、七五三など祝い事での参拝で村人が訪れ始める。避難生活の苦しさを打ち明けられる。事故翌年の正月は初詣客が、「頑張る宮司」を取材するマスコミ関係者より少なかったが、「やはりとどまったのが正しかった」と確信した。14年には例大祭も見事に復活した。

しかし5年の歳月は平坦ではなかった。92歳の母親が避難先で倒れ急死した際は、死に目に会えなかった。日常もそれほど仕事はなく、「以前に氏子さんがお茶を飲みに来ていたようなこともなくなりました」。今年の正月は久しぶりに数百人の村民でにぎわったが、子供の姿が急に増えたのに、「放射能への警戒が風化しているのでは」と逆に心配になった。

多田宮司は「事故は明らかに人災です。何でも『想定外』にされたらたまらない」と不信感をあらわにする。例大祭の祝詞には原発を告発する言葉を散りばめた。「東京電力福島第1原発のそこないたるは最も憂たき事にして五穀の作付もままならず。大神の御氏子ら避難より早3年を過ぎぬるも将来も見えずして苦しみも極まりぬ……」。毎年の例祭でも同じ。裃姿で参列する人々が「その通りだ」と背後でうなずいているのが分かる。

村人のつながりがずたずたに分断されたのは、とてつもなく悲しく苦しいことだ。「飯舘はもともと過疎だったが原発事故によって崖から突き落とされた。5年なんてまだまだ節目ではない」。「絆」などという言葉だけがもてはやされ、そして数年で廃れていく、そんな世間の状況に対して、忘れず伝えたい多田宮司の思いがそれだ。

「負げねぇぞ」という気持ちは村民に共通する。村出身の東京大大学院生らが千葉県に避難中の酪農家と共に14、15日の「東大五月祭」で、名産飯舘牛の肉を販売して苦境を訴えた。

苦難の日々をくぐり、多田宮司は「この場にいて氏神をお守りし、皆さんを支えることが使命。以前からずっとそうだった」と実感した。村の鎮守として村民には特に存在感が大きい。「神社があるから村さ戻る」と言う氏子もいる。死者が出れば神葬祭を営み、仏教の位牌に当たる氏子の御霊代が115軒分社殿に安置されている。それが、氏子と神社の太いつながりの象徴だ。「建物の形や入れ物ではなく、村を離れていても皆の心の中に神様はいるのです」と宮司は力を込めた。

(北村敏泰)