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1、祖父と私 寺は子供の遊び場だった

浄土真宗本願寺派常楽寺住職今小路覚真

2015.10.30~2015.11.20

  • 1、祖父と私 寺は子供の遊び場だった
  • 3、日本語の混乱 本来の意味、思想が変化
  • 2、お寺の危機 限界集落と後継者の問題
  • 4、仏教の内部崩壊 「信ずること」抜け落ちて

「クックー、クックー」とキジ鳩の鳴き声や、木々の間を通り抜ける風がたてる葉音、小雨のあと樋の水溜まりに落ちる窓ガラス越しの水音。

小学校の1年生から3年生まで預けられていた富山県の石川県境に近い寺院での日々をそれらの音で想い出す。

親の話によれば、京都では敗戦直後に家族4人の生活はかなり厳しく、動き盛り、食べ盛りのワンパク坊主であった私が一人、母方の祖父母の住まう地に“食糧疎開”させられた、ということである。

祖父は寺院住職であると同時に教育関係にも従事していたということで、毎日顔を合わせるということはなかった。しかし「ライオン」とあだ名がつけられているほど、教育現場では厳格な人であったようだ。

時によるとその厳格さは、初孫である私にも容赦なく振り向けられた。

普段はあぐらの間に割り込んでも、肩によじ登って頭の髪をひっぱったりして、祖母や叔父たちに肝胆を寒からしめることがあっても、にこにこしている祖父が、そのイタズラの内容によって「ライオン」の本性をむき出しにすることがあった。

土蔵の中の米櫃の中に放り込まれたり、玄関先の柱に荒縄で縛りつけられたりしたことがあった。その原因が何であったのかは今となっては判然としないが、受けた仕打ちだけは、はっきり憶えている。

米櫃から出してくれたり、荒縄をほどいてくれたりした祖母の手の温もりをいまも私の肌が憶えているからだろう。

そうした祖父の目を盗むようにして、ワンパク盛りの私は、学校から帰るや境内での野球(三角ベース)や自転車の三角乗り、また本堂内での隠れんぼ、ビー玉など、現代の幼稚園や保育園の園庭の様子を呈するように振る舞っていた。

場合によれば、境内の木々を傷めたことがあったかも知れないし、本堂の障子を破ったり、廊下の板をキズつけたりしたことがあったはずなのに、そうしたことで祖父から叱責を受けた記憶は一切ない。

雨が降ろうが、雪が積もろうが、本堂を中心とした空間に、近隣の子供達の嬌声がとだえることがなかった。

しかし、そのことで叱り声をあげる大人は一人も居なかった。お寺とは、そういう場所だったのだ。