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1、葬儀の新世紀 不信解くには長年かかる

真宗大谷派研修部長譽田和人

2016.04.08~2016.04.29

  • 1、葬儀の新世紀 不信解くには長年かかる
  • 3、見えない仏道 歩く人なく進めやしない
  • 2、苦を明かす路 人生を仏の教えに聞く
  • 4、お葬式ジャングル 仏教屋になっていないか

21世紀になったからか「世紀末」という言葉もさっぱり聞かなくなってしまった。ヨーロッパから入ってきた概念ではあるが退廃や絶望、荒廃した世界をイメージするこの言葉は、主に芸術や政治の区分で19世紀末の状態を表している。

20世紀の終わりを体験し21世紀を15年も生きてきたこの身としては、毎年が世紀末の感がある。そういうことからすると、日本で使われている「世も末だ」という感じがピッタリくる。

坊さんがネットで派遣されることに仏教界から強い反発がある。「信仰に値段をつけるなどとは不謹慎」という理屈は僧侶である自分にもよく理解できる。その視点からすれば「お布施に相場はありません」「おたくサマのキモチ」としか言いようがないのです。

しかし、そのことが一般には理解し難いのであります。金を掛けることが、即ち気を掛けることとして生きている現実からすると、いきなりどれほどかの「気」を表すことの難しさは、仏事以外の娑婆暮らしを振り返ってみたら想像ぐらいはできるのではないか。我々はまずその難題を自らに返してみなければならない。

もう一つの難題は、私たちは宗教屋なのか宗教家なのか。仏教屋なのか仏教家なのかということである。日ごろ仏教屋としか見えなかった人が、手のひらを返して仏教家のように振る舞うことに戸惑い、不信が生まれたとしても無理からぬことである。

長年にわたって思っていたことを「ショージキ」に話せる時代がやってきた。「世のしがらみに縛られず、分相応の弔いができるようになったバンザイ!!」となったのである。

長年積み重ねた不信を晴らすには、長年かかるということを覚悟すべきなのだ。そうです。坊さんにとって最も大事な「覚悟」です。不透明であやしい世界をつくってきたことを率直に反省し、表明することができない者に信頼は戻ってこないのです。

お金を出す方にとっては世紀末だったのですから、新世紀が来たのです。それでも坊さんに法要を依頼する方々は仏教に期待があるのでしょう。葬儀の7割が無宗教のこの時代に。