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1、仏教学と宗学の間で 若い頃居心地の悪さ抱く

大正大名誉教授木村秀明

2017.04.14~2017.05.12

  • 1、仏教学と宗学の間で 若い頃居心地の悪さ抱く
  • 3、ゲント大学で得たもの 内なる制約認め心自由に
  • 2、ベルギー留学 言語と教会分断の小国
  • 4、日本帰国 「宗学者」自信持って研究

宗学と仏教学。違いがあるのかないのか。正直なところ、若い頃の私は宗学に一種の後ろめたさを感じていた。宗学は、祖師の教えを第一とするあまり、護教的であり、保守的であり、時として非科学的であると。

一方、仏教学は、仏教全体を客観的に公平に扱う科学的な学問である。本来の仏教は合理的であり、輪廻転生等の迷信とは無縁であると、仏教学の講義で教えられ、また漠然とそのように信じていた。

なぜ学ぶかについて同級生との意識の違いに戸惑ったことが思い起こされる。宗学のコースに所属し、弘法大師の著作を研究テーマにしていたが、私にとって大師の著作は難解で手強かった。また関連する密教や仏教の文献はさらによく分からなかった。分からないから悔しい、悔しいから何が書いてあるか知りたい、という単純な好奇心だけで勉強していた。ところがほとんどの学友は、真言宗の僧侶になるため、良いお坊さんになるために勉強するという。今にして思えば、こちらの考え方のほうがよほど健全でまともだが、当時は何となく違和感を覚えていた。

この頃から、自分は宗学を研究領域としてはいるが、心の底では仏教学に軸足を置いているのかもしれないと疑い、宗学と仏教学に挟まれた居心地の悪い思いを抱くようになった。

今も昔も宗学と仏教学の間には実体のない幻の垣根があるように思われる。宗学は縦文字で仏教学は横文字という思い込みは、その典型的な例であろう。宗学はもっぱら漢文の文献を扱い、サンスクリットやチベット語訳を読むのは仏教学であるという。

このような宗学と仏教学の間の居心地の悪さも、ベルギー留学を契機にいつの間にか霧散してしまった。今では気後れすることもなく宗学者を自認している。

今でも学生には文献を読む楽しさを知ってもらいたいと願っている。しかし、良い僧侶になるために頑張りますと言いながらも迷いと不安一杯の表情で入学してきた学生が、徐々に自信と誇りを身に付け、僧侶らしい顔つきになっていくのを見ると、なぜかうれしくなってしまうのである。