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村の神社 なぜ流されなかったのか?― 復興へ新たな伝承の場

海洋プランニング㈱所属 熊谷航氏

2013年6月22日付 中外日報(論・談)

くまがい・わたる氏=昭和55年、福島県生まれ。平成17年、東京工業大大学院情報理工学研究科修了(工学修士)。同年、㈱ジン・ネット入社、主に北朝鮮の拉致問題に関する番組制作などに携わる。19年、海洋プランニング㈱入社。出身地である福島市を拠点に、主に沿岸域の環境調査、測量などの業務に携わる。神社本庁主催の「伝統文化セミナー」などで神社と津波防災、復興への取り組みに関する講演活動を行う一方で、南相馬市の村社の復興プロジェクトを主催する。

村の神社は流されずに残った――東日本大震災の津波の浸水被害がでた福島県の海沿いでは、たくさんの小さな村の神社(村社)が、大きな被害を免れていました。この残った神社から、復興、地域づくりの新しい動きが見えてきました。福島県の被災地での事例を交えながら、紹介したいと思います。

(図:津波浸水域と神社の場所)は、南は福島県南相馬市から北は新地町までの標高地図に、沿岸部にある神社の場所(赤点)を記し、そこに津波の浸水線(青線)を重ね合わせたものです。これを見ると、ほとんどの神社が津波が到達した浸水線の上にあるように見えます。筆者が行った調査で確認した84の神社のうち、8割にあたる67社が流されずに残っていて、神社を境に被災状況ががらりと変わっていました。

なぜ、村の神社は流されなかったのでしょうか。理由は二つあると思います。

理由の一つ目は、神社の場所が津波の届くぎりぎりの標高にあったことです。標高線と神社の位置を重ねてみると、南相馬市原町区では標高10メートル、相馬市では標高5メートル近くに神社が立地していることがわかりました。また、そのような規則的な配置は古い神社に多く見られて、明治以降に新築・移転されたような新しい神社には見られませんでした。結果として、新しい神社には流されたものが多かったのです。

理由の二つ目は、鎮守の杜が津波の勢いを弱めていたことです。神社の周囲の樹木には、津波によって折れてしまったものが多く見られます。しかし、杜の陸側では、家屋などに大きな被害はありません。津波が杜の樹木にぶつかり、渦巻くことで、その勢いを弱める効果があったのです。

村の神社といえば、震災前までは何気なく通り過ぎていただけかもしれません。しかし、津波のあとに、大きな存在感を示していました。瓦礫だけになってしまった被災地において、神社だけが凛と立つ光景は、「神々しい」というほかありません。先人たちが守り、伝えてきた大切な宝物なのだと、改めて感じさせられる光景でした。

いま、これら被災地の神社から、復興への新たな動きが芽生えようとしています。

南相馬市にある北萱浜稲荷神社の事例をご紹介します。南相馬市原町区北萱浜地区は、海岸から1・5キロほどの場所にあり、人口約400人のうち、50人近い住民が津波で命を落としました。集落は全95世帯のうち、稲荷神社を境に海側にあった65世帯が全壊、流失しましたが、稲荷神社が残っていたことに、地元の住民たちも改めて信仰を深くしていました。しかし、震災から1年ほどが経った昨年4月にこの地を訪ねてみると、「神社を存続したいが、難しい」という声が聞こえてきました。社殿は流されずに残ったものの、津波の浸水を受け損傷していて、鎮守の杜の樹木は震災後から徐々に塩水を吸い上げ立ち枯れ、少しずつ伐採されていました。何よりも神社を支える氏子さんたちがみな被災しており、それらを復興する見通しがつかないということでした。神社は復興事業などの対象にはならないので、公共の支援は受けられません。あくまで、氏子さんたちの努力によって復興するしかないのですが、それが難しいのです。

このとき、わたしは豊かな地域づくりと復興のためにこの村の神社を再生し、未来へと残すべきだと考えていました。その意味は三つあります。

①津波防災の拠点として活用できる

東日本大震災クラスの津波には、その立地場所が避難の目安となること、杜が津波の勢いを弱めたことがわかりました。神社は集落ごとにあるので、地域の防災施設として活用できます。

②復興のシンボルとして

津波で流されてしまった地区では、まったく新しい町並みがつくられていきます。そんななかで、残った村の神社に、ふるさとのアイデンティティを感じることは、大切なことだと思います。

③千年後の社会へ、震災の教訓を伝える

津波災害は、長い年月のうちに人々がそのこわさを忘れてしまいがちです。この震災の教訓を数百年~千年という未来へ伝えようとするとき、神社に願いを託すしかないと思うのです。村の神社は、遠い昔からわたしたちの暮らしに寄り添ってきました。

津波浸水域と神社の場所(福島県南相馬市から新地町まで)津波浸水域と神社の場所(福島県南相馬市から新地町まで)

以上のような考えを、北萱浜の区長・林一重さんにぶつけました。そして、地元だけでやるのが難しいならば外からの支援を募りましょう、ということもお話ししました。そしてインターネットやラジオ番組、新聞紙面などを使って寄付を呼びかけた結果、全国から1千万円近い寄付金が、地区へのあたたかい声援とともに集まったのです。この支援のおかげで北萱浜稲荷神社の修復、樹木の植え替えができることとなりました。そして何よりも、遠くから応援してくれる人たちがいるということがわかって、住民たちに復興へと向かう大きな勇気が生まれました。今年から地区の有志による農業生産法人を立ち上げ、地域の雇用と生きがいを創ろうと動き出したのです。

もうひとつ、事例をご紹介します。南相馬市小高区にある日鷲神社です。日鷲神社の氏子地区、女場地区は、原発から十数キロという場所であることから、震災直後から警戒区域に指定され、立ち入りが制限されていました。昨年4月から、日中の立ち入りはできるようになりましたが、宿泊は許されておらず、いまだに住民の全員が避難生活を送っています。

日鷲神社の宮司・西山典友さんは、震災以降、地域のコミュニティが分断されている現状に不安を抱いていました。この地域では、もともと地域のつながりが強く、親、子、孫の3世代が一緒に暮らす家族の形が一般的でした。ところがあの原発事故を受けて、世代間での隔たりが生まれたのです。小さな子供のいる若い世代の多くは、できるだけ事故の影響の少ない地域に住みたい、早く新たな仕事を見つけたい、などの理由から、遠く離れた都市部で新たな生活をはじめています。一方で、年配の世代は慣れ親しんだふるさとへの愛着が強く、近隣の地域で避難生活をしています。結果的にお互いのつながりが薄れ、震災関連死が増えているのではないか、と危惧されています。女場地区では人口約80人のうち、10人が震災後の避難生活において亡くなっています。

そこで西山宮司を中心に話し合い、8月に日鷲神社でイベントを開くこととなりました。目的は、バラバラになった家族と地域が集まれる機会をつくること。また震災以降、ふるさとへ足が遠のいていた人たちのために、帰る動機をつくりだそう、ということです。

この動きは、わたしが挙げた「防災」という視点からも、とても重要なことだと思っています。お祭りによって、村の神社に人が集まり、地域がつながり、そこで震災の教訓を語りあい、伝える場になっていくと考えるからです。いま、津波から残った神社を通じて、あの震災にまつわる新たな伝承が生まれようとしているのです。

あの震災で、わたしたちは多くのものを失いました。そこからの復興というと、まったく新しいものの創出を考えがちです。しかし、わたしたちの暮らしは、先人達がつくり、つなげてきたもののうえに成り立っているということを忘れてはいけません。被災地の小さな村の神社が、そのことを教えてくれています。その教訓を心に刻み、そこからつながる現在、未来を想うこと、それが地域づくりの第一歩なのではないでしょうか。