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江戸の数学と寺院の関わり ― 『塵劫記』著者、天龍寺僧と深い縁

歴史小説家 鳴海風氏

2013年10月19日付 中外日報(論・談)

なるみ・ふう氏=昭和28年、新潟県生まれ。東北大大学院機械工学専攻修了。日本電装(現デンソー)に入社し現在に至る。平成4年、『円周率を計算した男』で歴史文学賞を受賞し作家デビュー。以後、和算小説を中心に執筆している。日本数学会出版賞など受賞。博士(経営情報科学)。著書に『算聖伝』『美しき魔方陣』『和算忠臣蔵』『和算小説のたのしみ』『江戸の天才数学者』ほか。

「読み・書き・そろばん」と言えばすぐ「寺子屋」が思い浮かぶほど、江戸時代の寺子屋はよく知られています。一般庶民の教育機関として、なくてはならない存在でした。

その寺子屋のお蔭で、幕末、日本を訪れた欧米人は、高札に書かれた文章を読んで幕府の通達を知る町人たちの姿を見て驚嘆しました。そのような国は世界に稀でしたし、さらに彼らは、簡単な計算なら暗算で、難しいものでもそろばんを使ってすばやく正確に計算したからです。

そもそも寺子屋は、江戸時代に始まった制度ではありません。名前に寺という文字が入っているように、昔から庶民に教育をしていたのは、お寺の僧侶たちでした。寺子というのは檀家の子供たちが語源だったようです。

専門家の研究では、寺子屋の起源は室町時代(戦国時代)までさかのぼります。実は、そろばんが中国から伝来し、そろばんを教える先生が出てきたのも同じころでした。

話は江戸時代に戻りますが、日本人の多くが「読み・書き」ができましたから、出版も盛んでした。そして、そろばんを基礎とする数学も発達していました。先日、ある研究会で、江戸時代の出版書を分類してみたら、全体の2、3%が数学書だったという報告を聞いて驚きました。

江戸時代に日本で発達した数学を和算と言います。明治5(1872)年に学制が公布され、数学教育は西洋式に統一することが決められました。ちょうど洋食に対して和食、洋服に対して和服と呼ぶように、西洋の数学を洋算と呼び、それまでの日本の数学を和算と呼んで区別しました。

江戸時代に出版された多くの数学書というのは、この和算の本だったのです。

江戸時代を通じてベストセラーだった数学書がありました。『塵劫記(じんこうき)』とその名前を含んだ『○○塵劫記』『塵劫記○○』といった類似本です。全部で300種類近くあったと言いますからハンパではありません。

『塵劫記』は、そろばんの教科書として寺子屋で使われましたが、豊富な例題を含んでいて、計算を必要とする仕事に応用できましたし、ネズミ算のようなパズル的な問題も、興味を引く絵と一緒に載っていました。そして、高度な数学への入門書にもなりました。

和算には独特な特徴がありました。難しい問題を鮮やかに解けたことを神仏に感謝するため神社仏閣に奉納した数学の絵馬「算額」、数学を教えながら諸国を旅して歩く「遊歴算家」、多くの「流派」が生まれ、段階を経て上へ上がる「免許制度」などです。

江戸時代初期に出版された最初の『塵劫記』は、和算発展の導火線に火をつけたと言えます。その『塵劫記』の著者を吉田光由と言いますが、彼と寺院との興味深い関係をこれから紹介します。

吉田光由は、慶長3(1598)年生まれで、京都嵯峨の豪商角倉一族に連なる人です。角倉一族と言えば、大堰川(保津川)、高瀬川を開削して水運を開いた角倉了以・素庵父子が有名ですが、この了以の父と光由の曽祖父が兄弟でした。了以の本姓は吉田でした。吉田家は代々、医業か土倉業(質屋、金融業)を営んでいました。

了以の父吉田宗桂は医者で、室町幕府12代将軍足利義晴の侍医も務めましたが、京都五山筆頭の天龍寺との縁が深い人でした。

周知の通り、天龍寺は、初代将軍足利尊氏が、夢窓疎石(夢窓国師など生涯7度国師号を賜った僧)の勧めで、自らが追いやった後醍醐天皇の菩提を弔うために開基した臨済宗の寺院です。当初、建立資金がなかったため、幕府は元との貿易を許しました。貿易船は天龍寺船と呼ばれました。

日蓮宗常寂光寺(京都市右京区)の山門脇にある『塵劫記』の顕彰碑日蓮宗常寂光寺(京都市右京区)の山門脇にある『塵劫記』の顕彰碑

吉田宗桂の時代になると、元は明になっていて、明との間で勘合貿易が行われていました。宗桂は、天龍寺の塔頭妙智院の住職策彦周良に従って明に2度渡航しました。策彦周良は五山文学末期の巨匠と言われた人物です。1度目、周良は3隻、460人ほどの使節の副使でした。2度目は4隻、630人に増えていて、周良は正使でした。天文16(1547)年に出発し、2年後に帰国しました。これは最後の遣明船となりました。

渡航中に宗桂は明の皇帝に薬を献上して名声を博したという逸話がありますが、医学書をはじめとして膨大な書物を携えて帰国し、蔵書は吉田家の書庫とも言うべき吉田称意館に収蔵され、一族の者は閲覧できました。

宗桂の長男が角倉了以で土倉業を継ぎ、医業は次男の吉田宗恂が継ぎました。

宗恂は、父宗桂が持ち帰った書物によって医業以外も学んでいました。吉田宗恂校、吉田如見(宗恂の息子)考『三尺求図数求路程求山高遠法』という測量の本が残っていますが、初期の数学の本と言ってもいい内容です。また、この時代は宣教師が京都へもやってきたころで、宗恂は日時計や渾天儀を作り、『漏刻算』(時間の計算)という著述も残しました。宗恂は西洋人の影響も受けた天文学者で数学者でもあったのです。

宗恂は徳川家康に気に入られ、たびたび呼ばれては本草学について話をしています。この縁が効果を発揮したのでしょう、了以は朱印状を得て、安南(ベトナム)をはじめとする海外との貿易に乗り出し、のべ18回におよぶ朱印船貿易で莫大な利益を挙げました。

了以の息子素庵は、父の貿易や河川開削を一緒におこなう実業家、土木技術者だけでなく、能書家であり典雅な嵯峨本を出版する文化人でもありました。

吉田光由は、角倉了以・素庵父子、吉田宗恂・如見父子が活躍していた時代に生まれ育ちました。『角倉源流系図稿』によれば、光由の最初の先生は、京都でそろばん指南の看板を掲げる毛利重能でした。それから、角倉素庵について中国の数学書『算法統宗』を学び、4巻の数学書を著して、その書名と序文を天龍寺の僧(西堂)玄光に頼みました。吉田家の関係者から住持が出たほど、天龍寺との縁は深いものでした。

玄光は、数学書を『塵劫記』と名付け「塵劫来事、絲毫(しごう)も隔てず」の句にもとづく、と序文に書きました。

法華経の久遠実成を教える塵点劫に由来し、「長い時間が経っても変わることのない真理の書」という意味が込められていると解釈されていますが、序文通りの成句はまだ見つかっていないようです。

いずれにせよ、天龍寺の僧に命名してもらって、寛永4(1627)年の初版『塵劫記』が誕生しました。『塵劫記』はたちまち評判となりました。光由はさらに色刷りにしたり、巻末に答えのない問題をつけたりしたことで、多くの読者に受け入れられました。

豪商角倉一族の権力者との結びつき、そして高度な学問を有する僧侶との文化的交流があったことが『塵劫記』を誕生させ、江戸の数学文化を花開かせ、庶民の教養レベルを高めていきました。