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「こころを病む」ことの意味 ― 当事者自身が経験考察

北海道医療大教授 向谷地生良氏

2015年1月21日付 中外日報(論)

むかいやち・いくよし氏=1955年生まれ、青森県出身。北星学園大卒業後、浦河赤十字病院医療社会事業部に精神科専属のソーシャルワーカーとして勤務。79年から北海道浦河町の日本基督教団浦河教会を拠点として精神障害のあるメンバーと共同生活を開始し、「浦河べてるの家」の設立等に尽力。2001年に「当事者研究」を創案し、普及に努めている。著書・共著に『べてるの家の「非」援助論』『べてるの家の「当事者研究」』『技法以前・べてるの家の作り方』など多数。
1.当事者研究の広がり

いま、北海道浦河町で始まった当事者研究という自助活動が国内外に広がりつつある。当事者研究は従来、いわゆる研究対象であった統合失調症などを持った人たちが、「自分の専門家、研究者」として観察眼を持って自分自身の経験を眺め、仲間や関係者と一緒に対話を重ねながら「自分に何が起きているか」を自由自在に考察し、新たな自助を創出するという極めて実践的な取り組みであり、“生活実験”でもある。

当事者研究で大切なのは、世にありがちな物事の原因を探り、解決策を考えるという方法は採らないことである。それは、「こころの病」も含めて当事者にとっては、一見、あってはならない不快で、かつ辛い出来事であっても、現象として考えるならば、同時に何らかの“大切な意味”を孕んでいる可能性があるからだ。

そもそも“病むこと”も含めて、人が生きている現実は、気象や生命現象にも似た“複雑系(complex system)”そのものであり、一方、そこには分かりにくいけれども奥深い“意味のある性質”が内包され、それが繰り返し反復されて表面化すると考えることもできる。

しかし、ここで疑問もわく。そもそも統合失調症などを持った人たちが自ら研究して得られた成果には根拠(エビデンス)があるのか、という問題である。その「根拠」に関して当事者研究の一番の強みは、「こころの病を経験した人自身がそう実感している」「効果があった」という否定しようのない“主観的事実”である。

「幻聴さんに“お帰り下さい”とお願いしたら帰ってくれた」「帰れ!と怒鳴ったら倍返しされた」という結果からは、「幻聴さんとはケンカをしない」という実践知が読み取れる。

全国各地はもとより海外(特に韓国)に広がりを見せる当事者研究は、統合失調症などを持つ“在野”の研究者から寄せられる300事例にも及ぶ研究実績という“ビッグデータ”を持つに至り、脳科学や臨床家を巻き込み、そこから新しい連携が始まっている。

2.当事者が語ることの可能性

精神医学やそれに関わるケアや相談援助は、人の「こころ」と「生きる」ことの曖昧さを、より分かりやすく、そして普遍的で科学的な根拠を持つことに多大な時間を費やしてきた。そして、そこから生み出された様々な理論仮説は、臨床の現場に新しい理解と方法を提示し、その都度“専門家”は流行に遅れまいと新しいアプローチの習得に励んできた。それは、決して無駄な作業ではない。

しかし、精神医療の現場に立つ私たちがまず受け入れなくてはいけないのは、専門家が新しい知識や技術を磨き、スキルアップした結果として回復がもたらされるのではないという厳然たる事実である。36年間、精神科医療の真っただ中に身を置いてきた一人として持っているのは、「理論によって救われた人はいない」という実感と、「こころの病」を抱える人の回復とは、専門家の“前向きな無力さ”によって促進され、そのことによってはじめて当事者は“自分の主人公”になることができるからである。

このことは、従来から現象学や精神病理学が追求してきたテーマとも重なる。我が国を代表する世界的に著名な精神病理学者である木村敏氏は、かねてから「薬物で動かすことの出来る表面的な症状だけに集中して、そういった症状を背後から生み出している精神の病理、自己存在の病理に対する関心などは見る影も無く失われている」(『臨床哲学の知―臨床としての精神病理学のために―』)として、脳科学と精神生物学的なエビデンスを重視し、薬物に偏重した精神科治療の現状に警鐘を鳴らし続けてきた。

特に1980年代以降、木村氏の説く世界を観念論と批判し、精神医学は“普通の医学”になることを志向し、脳科学の進歩が新薬の開発と共にこころの病の治療に新しい可能性をもたらすという期待の中で木村氏の言う「精神の病理、自己存在の病理」としての統合失調症への関心は薄れてきた。

そのような中で、当事者研究によって明らかになりつつある統合失調症などの「こころの病」は、遺伝子や分子生物学によって裏付けられた無機的なイメージではなく、私たちが忘れかけていた懐かしさに満ちた“人間の顔”を持っていた。

その意味でも、当事者研究の創出に関わり、それを育ててきた者の一人として、大げさな言い方をするならば当事者研究は、“見る影もなく失われてしまった”現象学的精神病理学の“後継者”としての役割を果たしつつ、その復権に寄与する活動であり、それが精神医療を「人間の営み」という理解に立ち返らせるための重要な契機となるような気がしている。

3.病気が治ったら、……死んじゃいます

最近、関東方面で企画された二つの当事者研究に参加する機会があった。研究者の一人は、統合失調症の症状の一つである“サトラレ(自分の考えが人に伝わってしまう)”に苦しむ女性、もう一人は通行人による悪口幻聴(総理大臣と知事の声も混じる)に苛まれる青年であった。

「浦河べてるの家」のメンバーも二人同行し、一緒にサトラレと幻聴のメカニズムを解明し、新しい対応策を語り合った。サトラレに苦しむ女性は、その影響でほとんど家から出られず、青年は幻聴のお陰で自信を無くし、「早く病気を治してください」としきりに主治医に訴え続けてきた。その影響からか、今度は薬が増えすぎるジレンマに苦しんでいた。

それぞれの当事者研究の仕上げのところで、私は二人に「もし、特効薬があって、病気の症状(サトラレや幻聴)が一瞬にして治ったら、あなたはどうしますか?」と質問をしてみた。意表をついた質問に二人は、一瞬口ごもりながらも女性は「ちょっと、気持ちのバランスが崩れますね」と言い、青年はぽつりと「治ったら、死んじゃうかもしれませんね……」とうつむいた。

女性にとって「サトラレがあるお陰で、みんなが心配して、訪ねて来てくれる」し、「サトラレが急に治ったら孤独になって何をしたらいいかわからなくなる」と言う。青年は「病気が治ったら、親の期待(家族の多くは医師)に応えて自立をしなくてはいけなくなって、言い訳が効かない。そんな自信は無いから死ぬしかない……」と苦渋に満ちた表情で答えた。

二人の若者にとって病むということは“つながり”を保証する手立てであり、現実の生きづらさから自分を守る盾となっていたのである。ここを浮き彫りにするところが当事者研究の醍醐味であり、現代の精神医療が最も見失っている点でもあるような気がする。

4.「悩む教会」になる

長きにわたり分子生物学の領域から統合失調症の解明に取り組んできた糸川昌成氏(精神科医・分子生物学者)は、その著書(『統合失調症が秘密の扉をあけるまで』)の中で「その人の生きてきた文脈が理解され、症状の意味が汲み取られ、ご本人が病気を腑に落ちる物語として描き終えた時、はじめて統合失調症から回復できる。すなわち、抗精神病薬は、脳は治せるが、魂は治せないのだ……」と語っている。

エビデンスを重視する先端科学を極めた研究者の言葉は、いい意味での精神医学の限界を私たちに知らせてくれる。

「べてる」が、北海道の小さな町で暮らす統合失調症を持った人たちと築き上げてきた“機嫌よく生きる”という暮らし方の模索から生まれた当事者研究と、“自分を粗末にすると病気さんが助けに来る”という当事者文化は、宗教の持つ可能性とも十分に重なる領域でもある。

そして、現在の宗教は「こころの病」に凝縮され、象徴化された時代の苦悩を読み取り、その苦悩を生きた人々のかけがえのない経験を“宝”として社会に解き明かし、多様な個性が共に生き合えるコミュニティーを社会に創出するという役割を期待されているように思う。かつて、「べてる」を生み出した浦河教会が、調子の悪いメンバーと地域住民との相次ぐトラブルから教会の内外で大変辛い時期を過ごしたことがある。

その時、私たちに与えられたのは「悩む教会になろう」という言葉だった。それは“地域の悩み”が“教会の悩み”となったことに感謝する、という意味である。

仏教者を筆頭に、キリスト教や天理教など「べてる」を訪れる宗教者の数は着実に増しつつあり、私たちもお寺の主催するイベントに招かれることも増えてきた。最近も「べてる」のある浦河町内のお寺が主催する行事に私たちは招かれ、檀家さんや地域住民と交流をした。そのように時代は、精神医療の抱えてきた現実と地域に根付いた宗教が、新たな出会いをすることを求めているように思う。そして、そこに私は地域づくりの新しい可能性を感じるのである。

※浦河べてるの家 北海道浦河町にある精神障害等を抱えた当事者の地域活動拠点で、1984年設立。社会福祉法人浦河べてるの家、有限会社福祉ショップべてる等からなる。当事者の①生活共同体②働く場としての共同体③ケアの共同体――の性格を有し、100人以上が暮らす。