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円珍晩年の「辟支仏」とは誰のことか ― 聖宝との接点探る

愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏

2015年2月4日付 中外日報(論)

ゆたに・ゆうぞう氏=1969年、名古屋市生まれ。2003年、名古屋大文学部博士後期課程単位取得満期退学、修士(文学)。現在、愛知県立大、名古屋外国語大非常勤講師、浄土宗西山深草派宗学院教授。

辟支仏とは、十二因縁の法を観じて悟ることから縁覚といい、師無くして独悟することからは独覚ともいう。これは仏の教えを聞いて悟る声聞とともに、大乗の立場から見れば、自利に傾いた小乗の聖者と見なされる。縁覚・声聞の二乗と、利他をはかる大乗の菩薩の三者の関係について、『法華経』方便品には、「唯一乗の法のみ有りて、二も無く、また三も無し」とあり、二乗や三乗の区別が否定され、それらが統合されたものが一乗であると解釈される。

この一乗と三乗をめぐる問題は、9世紀初頭の最澄と徳一による「三一権実」論争から10世紀中頃の「応和の宗論」に至るまで、『法華経』を所依の経典とする天台宗において繰り返し取り上げられた重要命題であった。

仁和3(887)年秋、第5代天台座主の円珍(814~891)は『辟支仏義集』なる著作を撰述した(『智証大師全集』中巻所収)。これは多数の経論から抄出した辟支仏に関する言説を配列したもので、その冒頭に付された円珍自身による「辟支仏義集縁起」によれば、辟支仏の存在そのものを否定するのではなく、独悟した辟支仏も最終的には大乗の教え(この場合は一乗の思想であろう)に廻向することが重要であると主張し、もしそれが無ければ増上慢によって阿鼻地獄に堕ちると厳しく批判する。

この『辟支仏義集』撰述の目的について佐伯有清氏は、この「縁起」の中に「北轅」「麤食」といった、最澄が徳一を批判した際に使用した特徴的な言葉が使用されていることから、「徳一、およびその流派にたいする批判」とされた(人物叢書『円珍』)。

しかし、最澄との論争から約70年の歳月を経て、円珍が徳一との論争を蒸し返そうとしたとは考えにくい。また、白土わか氏は「当時の現実の社会情勢が背景にあった」と推定するものの、具体的には役小角や泰澄・法道といった古代の伝説的山林修行者の羅列に終始され、円珍その人をめぐる「当時の現実の社会情勢」を考察するという方向へは進まなかった(「日本仏教における辟支仏の問題」)。よって、『辟支仏義集』の撰述の目的や批判の対象についてはいまだに明確でないといえよう。

筆者は、『辟支仏義集』所引の経論が辟支仏をしばしば山林修行者に擬することや、先の「縁起」の表現などからみて、円珍の批判対象は南都の教学を身につけると同時に山林修行を実践する仏教者であると考えた。

さらに『辟支仏義集』が撰述された仁和3年秋は、8月26日に光孝天皇が崩御して宇多天皇(867~931)が即位するという政治的に重要な転換期と一致しており、後述のように新帝が幼年時より山林修行を実践していることをふまえれば、円珍の直接の読者対象は宇多新帝であり、批判の対象は新帝に仏教的影響を与えうる人物であると推定した。そして当時、以上の諸条件をすべて満たす人師は、醍醐寺開山聖宝(832~909)をおいて他にないと考えている。

宇多天皇は自身の言葉によれば、8、9歳という若年の頃より天台山に登って修行を事とし、爾来毎年寺々に参詣して出家の志を持っていたという(『扶桑略記』寛平元年正月条)。

また、即位早々に時の権力者藤原基経が「阿衡の紛議」といわれる一種の示威行為に出たことから、良房・基経と継承された摂関体制に反抗する姿勢もあったようで、これはかつて良房の意向を受け清和帝の護持を自身の宗教活動の中心に据えていた円珍にとっても心穏やかなことではなかったろう。

一方、聖宝は空海の実弟である真雅について出家し、東大寺に住房して主に南都の人師について習学しており(『聖宝僧正伝』)、この間、吉野金峯山での山林修行も行っていたと推定される。聖宝が清和天皇の護持僧として活躍した師の真雅と確執があったと伝えられることについて大隅和雄氏は、時の権力者である藤原良房に接近する真雅とは、「仏教のあり方についてもこの師弟が考えを異にしていた」とされた(『聖宝理源大師』)。

聖宝が、後に醍醐寺となる笠取山で仏像の造立と堂舎の建立を開始したのは貞観16(874)年というが(『醍醐寺縁起』)、筆者はこの年が宇多天皇が修行を始めたという8歳に相当することに注目し、後の両者の信頼関係からみて、既にこの頃から両人に面識があったのではないかと考えている。

真雅の没後、聖宝は弘福寺の別当に補任され、真然より金胎両部の大法を、源仁より伝法潅頂を伝授されるなど着実に密教の奥義を極め、寛平2(890)年には真雅以来の貞観寺の座主に補任されたが、これは実に宇多天皇の強い慫慂によるものであった(『聖宝僧正伝』)。

その天皇は、仁和4(888)年に父光孝帝供養のために創建した仁和寺を真言密教の寺とし、「寛平の治」と呼ばれる9年間の治世を通して、聖宝とその兄弟子益信への帰依を深めており、寛平9(897)年に子の醍醐帝に譲位すると、翌年には吉野宮滝へと御幸し、さらに翌昌泰2(899)年に、東寺で潅頂を受け、仁和寺で益信により落飾、東大寺で益信より受戒と(聖宝は戒和上として出仕か)、念願の仏道修行を早速開始し、翌昌泰3(900)年7月には吉野金峯山への登拝を果たす(『扶桑略記』)。

『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は金峯山で6尺の如意輪観音像、1丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造立し、それを安置する堂舎を建立、吉野の現光寺では丈六の弥勒菩薩像と1丈の地蔵菩薩像を造立、金峯山への要路にあたる吉野川には渡船と船頭を6人置いたという。その時期については明記されていないが、これは昌泰3年の宇多法皇の参詣と密接に連動した活動であろうと筆者は考えている。

『後撰和歌集』巻十九の「法皇遠き山ぶみして……」という詞書を持つ聖宝の和歌はこの時のものと思われ、法皇の金峯山登拝に聖宝が随行したことは間違いなかろう。10世紀初頭の金峯山信仰において両者の連携が果たした役割はすこぶる大きいと考えられる。

法皇は延喜5(905)年4月には叡山に登拝、円珍の弟子である増命から受戒、大法を受けるが(『扶桑略記』)、以後数度に及ぶ叡山参詣は一乗止観の教えを学ぶというよりは、最澄・円仁・円珍の渡唐三僧によって将来蓄積された叡山の「真密」(真言密教)を自身に具備することを目的とするものだった。法皇の仏教的指向は、密教の網羅的体得と金峯山での山林修行にあったと考えられ、そのためには、新戒壇の設立によって南都側としこりを残す叡山よりも、南都との深い関係を継続している空海門流のほうが望ましいという理由もあったろう。

これこそ円珍が最も危惧したことではなかったか。仁和3年秋、光孝帝の崩御に際して宇多新帝の政治的・宗教的思想を探った円珍は、そこに反藤原氏の姿勢と山林修行への憧憬を見た。そして、21歳の新帝の仏教思想に大きな影響を与えていたのが、南都教学を身につけ、山林修行に多年従事して醍醐寺を経営する聖宝であると知った時、即座に聖宝を「辟支仏」になぞらえて激しく批判した。これが『辟支仏義集』撰述の動機であったと筆者は考えている。従来、仏教史的にさして注目されることのなかった『辟支仏義集』であるが、この円珍晩年の撰述には、宇多天皇の信仰をめぐる円珍と聖宝との知られざる緊張関係が隠されていたのである。