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ブッダガヤ、目覚める「仏教聖地」 ― 問い直されるあり方

国立民族学博物館外来研究員 前島訓子氏

2015年6月26日付 中外日報(論)

まえじま・のりこ氏=1980年、三重県生まれ。名古屋大大学院環境学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。名古屋大助教を経て、現職。専門は地域社会学、都市社会学、地域研究。論文に「ブッダガヤ-仏教最大聖地の発見と変容」など。
仏教発祥の地、インド

インドにおいて国内外の旅行者を惹きつけて止まない場所の一つに「仏教聖地」がある。インド北部地域のガンジス河流域には、ブッダ(釈迦)と関わりのある地が点在し、中でも、その生涯と最も深く関わる地は「仏教聖地」と呼ばれている。特に、誕生の地(ネパールのルンビニー)、悟りの地(ブッダガヤ)、初めて説法をした地(サルナート)、涅槃の地(クシナガラ)は、仏教四大聖地と称されている。この四大聖地の中でもブッダガヤは、仏教最大の聖地として知られ、外国人もよく訪れる。

ブッダガヤには、ブッダの悟りを記念して建立されたとされる50メートルを超える大塔(大菩提寺/マハーボーディー寺院)や金剛宝座、菩提樹がある。2002年に世界遺産に登録され、国内外の仏教巡礼者や観光客が訪れる地となっている。その数は年々増加の一途をたどっているが、今のように人々が押し寄せるようになるのは、インドが独立する1947年以降、とりわけこの地に各国の仏教寺院が建てられ始める56年以降のことなのである。

忘れられていた「仏教聖地」

ブッダガヤをはじめとした「仏教聖地」が、人々の関心を惹きつけたのが比較的近年だという事実は、インドにおける仏教の歴史とも関わる。インドには「仏教空白の時代」と称される時代がある。13世紀頃になるとインドから仏教が姿を消し、時の王や有力者からの寄進、仏教教団の保護の下、繁栄の過程で各地に建立された仏教建造物の多くは、経済的基盤を失った教団内部の弱体と、イスラム教徒の侵略に伴う破壊、さらには自然災害を被り、風雨にさらされる中で、「仏教聖地」は忘れられた地と化し、遺棄されることになったのである。

再発見されるブッダガヤ

こうした仏教の栄華を象徴する遺跡に光が当てられるのは英領期のことである。19世紀になると英国考古学調査局による各地での調査が進み、仏教遺跡の発掘が行われた。ブッダガヤでは大塔の大規模な修復が行われ、この修復が今日の大塔の原型を築くものとなっている。

ただし、ブッダと関わりのある場所が最初から特定されていたわけではない。ブッダ誕生の地(ルンビニー)に関しては、初期の探査段階ではいくつもの候補地があり、ブッダが幼少期を過ごしたとされる地(カピラヴァストゥ)に関してもインド側とネパール側でその位置が論争になっていた。要するに、すでにインドの大地に埋もれ、忘れられていた地は、考古学的調査が進む中で「仏教聖地」として位置の確認が進んでいくのである。

しかし、位置の特定によって即座に、信仰上意味を持った場所として、内外の仏教徒に注目されたわけではない。ブッダガヤが単なる歴史的遺跡ではなく、仏教徒にとって神聖な地として改めて再認識されることとなったのは19世紀も後半のことである。

当時、ブッダガヤの大塔は、ヒンドゥー教のシヴァ派の僧院の院長、マハントが所有していた。1891年にブッダガヤを訪れたスリランカの仏教徒、アナガーリカ・ダルマパーラが、ブッダをヴィシュヌ神の9番目の化身と見なし、ヒンドゥー教の寺院であることを主張するヒンドゥー教徒から、大塔の返還を求めて立ち上がった。ダルマパーラを駆り立てたのは、大塔が仏教徒にとって聖なる場所以外のなにものでもないという思いと、現状を仏教徒が誰も問題にしてこなかった現実を目の当たりにしたからだった。ダルマパーラは、同年にマハーボーディー・ソサイエティ(大菩提会)を設立し、世界の仏教徒に協力を呼びかけ、日本にも支援を求めて来日している。だが、その願いはすぐに叶えられたわけではなく、インド独立以後にブッダガヤ内外で起きた変化を待たなければならなかった。

インド独立以降の変化

インド独立以降、ブッダガヤは「仏教聖地」として大きな変化を遂げていくことになる。ヒンドゥー教徒が所有していた大塔は、ビハール州政府の所有物となり、1949年にブッダガヤ寺院法の施行によって、その下で管理されることになった。この法律の下で、仏教徒にも管理の権限が付与されたのである。56年には、新生インド政府が国をあげて仏教2500年祝祭を催し、国内外の仏教徒や国賓を招待した。ブッダジャヤンティ(生誕祭)が開催された際には、初代首相ジャワハルラル・ネルーが、同地に国際仏教社会の建設を謳い、各国に仏教寺院の建設を呼びかけている。呼びかけに呼応する形で、タイや日本をはじめ、様々な国や地域の仏教寺院の建設が進み始め、今やその数は55カ寺を超える。

また、大塔や金剛宝座、菩提樹の周囲では80年以降、様々な国や地域の仏教徒によってそれぞれの国や地域の仏教儀礼が行われ始める。2000年以降、毎日のように100人を超える規模の仏教儀礼が11月から2月にかけて行われている。異なる民族や文化的、社会的背景を持った人々が訪れ、互いの国の言葉、仕方で祈りを捧げている。

一度は忘れられた地と化していたブッダガヤは、英領期の考古学的調査を経て、次第に宗教的な意味をも取り戻し、1956年を転換点としながら「仏教聖地」としての色彩を帯びてきた。やがて揺るぎない地位を築き、「仏教聖地」としての「まなざし」が向けられるようになるのである。

現地の人々もあり方問い直す

インドにおける「仏教聖地」は、そのあり方を変化させてきた。私たちは、「仏教聖地」としての変化の過程において、遺跡やその周辺をめぐり様々な思い、利害、そして戦略が交錯する様を見いだすことができる。英領期のダルマパーラの運動や、92年に生じた新仏教徒による大塔返還運動のように、大塔を中心に「仏教聖地」がどうあるべきか、どういう「聖地」が望ましいのかという問題が問われている。

「聖地」のあり方を問い、それに働きかけるのは仏教徒だけではない。忘れてはならないのは、ブッダガヤに生活する人々の多くはヒンドゥー教徒やイスラム教徒だということである。彼らもまた様々な立場から「聖地」のあり方を問い直し始めている。

大塔をめぐる仏教徒による大塔奪還を求める運動や、2002年の世界遺産登録に伴う大塔周囲の開発計画等をきっかけに、彼らは、今日のブッダガヤが、自分たちや自分たちの先祖との関わりなくして存在しうるものかと問いかける。ブッダは、実のところ私たちの祖先であるスジャータがいたから悟りを開きえたのではないか。大塔を守ってきたのは、代々からこの土地に住む我が祖先と私たちではないのか、と。地元の人々は、自身の「生」や「記憶」を紡ぎ上げながら「聖地」のあり方を問い直している。

確かにブッダガヤは揺るぎない「仏教聖地」として登場してきたが、それと同時に、異なる立場の人々(仏教徒やヒンドゥー教徒、巡礼者や観光客、研究者等)によって、様々な「まなざし」が向けられており、多様な争点を生起させてきたのだ。その意味で、「仏教聖地」のあり方は前もって固定したものではなく、その都度の争点をめぐって立ち上がる妥協や折り合いの過程に見いだすことができるだろう。

グローバル化が進む中、宗教絡みの紛争が一向に衰えない世界において、異なる他者といかに共存しうるのかが改めて問われている。長い時を経ながら「仏教聖地」として築き上げられていくプロセスが示唆に富むのは、そこにそれぞれの利害や思惑を持った諸勢力が、立場を異にしながらも妥協し折り合いをつけていく中で、「聖地」という場所のあり方に接近していく実際的な可能性が見られるからである。「仏教聖地」ブッダガヤで現に見られる動きは、まさしく、どのように他者(たち)と向き合い共存しうるかという今日的課題を、地域固有の文脈で捉え直す具体的なたたき台の一つになるに違いない。