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真理知と世俗知 ― 解脱の手段はヨーガの実修

大谷大教授 山本和彦氏

2015年9月25日付 中外日報(論)

やまもと・かずひこ氏=1960年、京都市生まれ。大谷大大学院文学研究科仏教学専攻満期退学、インド・プーナ大サンスクリット高等研究所博士課程修了。プーナ大Ph.D、大谷大博士(文学)。2012年から現職。専門はインド哲学、仏教学。主な著書に『インド新論理学の解脱論』(法藏館)など。
二つの知識

古代インドのウパニシャッド文献(紀元前7~前4世紀頃)では、真理知と世俗知との二つの知識は厳しく峻別されている。真理知はヨーガ(瞑想)による個人の直接経験知であり、世俗知は概念知であり、言葉による知識である。無知や誤知は常に排斥される。概念知である世俗知は正しい知であっても解脱の手段ではない。『イーシャー・ウパニシャッド』(9~11)は次のように言う。

無知を崇拝する者たちは、盲目の暗闇に入る。知識で満足する者たちは、さらに深い暗闇に入る。知識とまったく異なり、無知とも異なると彼らは言った。このように賢者たちがわれわれに教えてくれたそのことをわれわれは聞いた。そして、知識と無知の両方を同時に知る者は、無知によって死を越え、知識によって不死を得る。

解脱を導かない世俗知と無知とは批判されている。「死を越え、不死を得る」とは解脱のことである。相対的な概念知を超越したところに真の知識がある。それはもはや個人の直接経験である。それによって人は解脱する。『ムンダカ・ウパニシャッド』(1・1・4~5)では、二つの知識は次のように言われる。

二つの知識を知るべきである。ブラフマンを知る者が語ったように。優れたものと劣ったものである。そのうち、劣ったものとは『リグ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、音韻学、祭祀学、文法学、語源学、韻律学、天文学である。一方、優れたものとは不滅なものを証得する手段である。

ここでは知識が二つに分けられている。劣った知識と優れた知識とである。劣った知識は、学問的知識であることがわかる。優れた知識は不滅なものであるアートマンを体験する手段、つまり解脱の手段である。「不滅なものを証得する」とは解脱するという意味である。ウパニシャッドの根本思想は、梵我一如である。宇宙の本体ブラフマンと個人の主体アートマンとが同一であることの体験知から人は解脱する。この知識はヨーガ体験によって発生する。ヨーガによって解脱するという表現はウパニシャッド文献においては、『カタ・ウパニシャッド』において多く見られる。

アートマンに関するヨーガによる証得によって、神を体験的に知り、賢者は喜びと憂いを捨てる。(『カタ・ウパニシャッド』2・12)

このアートマンは言葉によって得られない。(同2・23)

マナスを整え、常に清浄で知識のある者は、その境地に至り、そこから再び生まれることはない。知識を御者とし、マナスの手綱を握る者は、ヴィシュヌの最高の境地に達する。(同3・8~9)

解脱の体験は言葉によっては得られない。「証得」とは体験的に知り得ることであり、「喜びと憂いを捨てる」とは言葉による相対性を超越することであり、「ヴィシュヌの最高の境地」とは解脱の境地である。マナス(感覚器官)を制御するというヨーガによってのみ解脱の手段としての知識が発生する。この知識こそが真理知であり、そこから人は解脱するのである。

真理知の発生

真理知の発生はヨーガ(瞑想)による。『ヨーガ・スートラ』(300年頃)には、ヨーガの実修により識別知から真智が発生するプロセスが述べられている。ウパニシャッド文献によって断片的に言及されてきたヨーガの実修方法は、『ヨーガ・スートラ』において体系化されるようになる。ヨーガの実修の結果として無明が除去されると言われているが、その手段は識別知である。そして、この識別知から真智が生じる。『ヨーガ・スートラ』(2・25~28)は次のように言う。

それ(無知)がないから、〔見者と対象との〕結合もない。これが除去であり、見者の独存である。除去の手段は、しっかりした識別知(ヴィヴェーカキャーティ)である。彼(識別知を持つ人)には、最高位にある7種類の真智(プラジュニャー)がある。ヨーガの階梯を修行することから、不浄が消え、知識の光が輝き、識別知までの〔生起がある〕。

無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智によって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、人は解脱できるようになる。

二つの真理

仏教の中観派の祖師であるナーガールジュナ(龍樹、150~250年頃)は真理(諦)を勝義諦と世俗諦とに分ける。勝義諦は言葉や概念を超えた真理であり、世俗諦は言葉で表現できる真理である。空性体験や涅槃の体験は言葉で表現できない勝義としての真理である。一方、ブッダの教説は言葉で表現される世俗としての真理である。ナーガールジュナは『中論』(24・8~10)において、次のように言う。

二つの真理に依存して、ブッダの法が教示される。世俗諦と勝義諦とである。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えの深遠な真理を知らない。言語活動に依存することなく、勝義諦は説示されない。勝義諦が得られていなければ、涅槃は証得されない。

ナーガールジュナは二つの真理を言う。一つは言葉によって示される真理である世俗諦であり、ダルマ(法)としてのブッダの教説である。もう一つは、言語活動のない寂静なる涅槃の直接体験である勝義諦である。ナーガールジュナは帰敬偈で、縁起は戯論寂滅であると言い、第25章「涅槃の考察」で涅槃も戯論寂滅であると言う。縁起も涅槃も言語活動が停止したところにある。『中論』(18・5)において空性体験は次のように言われる。

業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。

分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の滅した人は解脱する。

二つの認識手段

仏教論理学者のディグナーガ(陳那、480~540年頃)は、認識対象を個物としての個別相と概念としての共通相との二つに分け、それぞれの認識手段を知覚と推理とに限定する。ディグナーガの認識論と論理学を継承するダルマキールティ(法称、600~660年頃)は、概念知である推理知は誤った知識であると言う。正しい知識は直接体験である知覚によってのみ得ることができる。知覚は個物を対象とし、推理が概念を対象とする。2種類の対象があるので、認識手段も二つである。ディグナーガの知覚定義によれば「知覚は概念作用を離れたものである」(『プラマーナ・サムッチャヤ』1・3)。外界の実在は知覚によって認識される。知覚の認識結果は言語表現できない。「あれ」「それ」「空」としか言いようがない。一方、推理によって認識されたものは言語表現できる。ダルマキールティによれば、推理は概念を対象とするので誤った認識手段であるが(『プラマーナ・ヴァールッティカ』3・55~56)、知識としては確実であり、さらに人間にとって効果がある。

ヨーガによる真理知が解脱の手段

ヒンドゥー教新論理学派のガンゲーシャ(1320年頃)は、ヨーガと真理知(タットヴァ・ジュニャーニャ)による解脱のプロセスをうまくまとめている。彼は『タットヴァ・チンターマニ』において次のように言う。

天啓聖典や伝承文学で言われているヨーガの規定によって、長時間絶え間のなく、注意深く実践した瞑想によって生じたヨーガから生じる〔純粋な〕ダルマによるアートマンに関する真理〔知〕の直接経験は、輪廻の種子である潜在印象をともなう誤知の根絶を可能にし、過失(煩悩)がなくなるので、活動(業)などがなくなり、未来のダルマ(善業)とアダルマ(悪業)が生起しなくなり、無始以来の〔輪廻している〕生存に積集された業の享受による滅から、彼は解脱する。

解脱の手段は何か。何が煩悩(クレーシャ)と業(カルマン)を消滅させるのか。それはヨーガの実修という人間の努力である。天啓聖典であるウパニシャッド記述のヨーガの実修方法による瞑想を実践すると純粋なダルマが生じる。そのダルマが真理知を発生させ、誤知(無知)を滅する。順次、煩悩と業が滅し、新たな業が発生しなくなり、いままで蓄積されていた古い業が滅したときに、その人は解脱する。