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孤高の僧 青柳貫孝の生涯 ― 民族の違い超え人間の平等貫く

エッセイスト 寺尾紗穂氏

2015年11月13日付 中外日報(論)

てらお・さほ氏=1981年生まれ。音楽家、エッセイスト。東京都立大中国文学科卒。東京大大学院総合文化研究科修士課程修了。著書に『評伝 川島芳子』『原発労働者』『南洋と私』がある。

青柳貫孝(1894~1983)は第2次世界大戦以前のサイパンに南洋寺を開き、戦後は八丈島に渡り、サイパンからの引き揚げ者と共に香料栽培に携わった浄土宗僧侶である。大正期日本の社会事業を牽引した渡辺海旭を師とし、戦後はついに自らの寺を持ちえなかった孤高の僧は、僧侶の特権意識や驕りを憎み、人の平等を考え、共に汗を流すことを実践した人物だった。浄土宗の僧侶の中でもこれまであまり知られることのなかった青柳の人生を紹介したい。

サイパンに南洋寺

青柳貫孝は新潟県上越市(旧高田市)の浄土宗善導寺住職、青柳達存の長男として生まれた。達存は善導寺住職となる前は北海道開拓に半生をかけた僧侶で、貫孝にも「今度はお前はどこか仏教のないところに行って仏教を広めて自分でお寺を建てるというような志を持」つよう言い残している。そうした運命を促すかのように達存は早く亡くなり、檀家らは貫孝の成人を待たずに善導寺の新住職をよそから迎えることを決めてしまう。貫孝ら遺族は寺を追い出される形となった。

寺を失った貫孝は渡辺海旭が住職をつとめていた東京の西光寺に寄宿し、芝中学から大正大に進む。このころ、華道や茶道、作法の免許を取得、中でも壷月遠州流の武家茶道を教えることは、貫孝の生涯にわたって続けられた。壷月遠州流は現在貫孝の孫弟子にあたる中村如栴によって引き継がれている。壷月とは渡辺海旭の号である。

西光寺の檀家にはアジアの革命家や大陸浪人と親交があり、資金援助を惜しまなかった新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻がいたため、貫孝もインド留学が実現する。ノーベル賞詩人タゴールが設立した大学、サンティニケタン大学(現タゴール国際大学)へ渡った貫孝はタゴールに自ら茶道を教えたとも伝えられている。その後セイロンやビルマやサイパンを視察し、各地で華道や茶道を伝えた貫孝は、とりわけサイパンの状況を見てここに寺を開く決意をする。当時のサイパンは南洋群島とよばれた現在のミクロネシア地域の一部であり、ドイツの第1次世界大戦敗戦後、日本が国際連盟の委任統治の形をとって実質的な支配を行い、日本語教育も進められていた。

女学校開設に尽力

いったん帰国し昭和4年に東京都文京区の潮泉寺の住職におさまるも、3年後にはサイパンに移住している。そうして「3尺も5尺もあるような大きなトカゲのいるジャングルを切り開いて」南洋庁から2万坪の土地を払い下げてもらって昭和7(1932)年に開いたのが南洋寺だった。

やがて貫孝は、サイパンにおいて女子教育がないがしろにされていることに疑問を感じる。当時のサイパン在住の日本人子弟は小学校卒業後、男子はサイパン実業学校に進むことができたが、女子教育は用意されていなかったため、教育を受けさせたいと思えば内地に戻るしかなかった。女学校設置を訴えた貫孝に、南洋庁は「サトウキビ農民の子弟に教育はいらない」という態度だった。当時サイパンに渡った日本人の多くは農民で、とりわけ沖縄や八丈島、日本内地の貧しい農村からの移民が多かった。それでも貫孝は女学校開設をあきらめず、とうとう昭和11年、「サイパン家政女学校」(後のサイパン高等女学校)の開校にこぎつける。現地の島民、チャモロとカロリニアンもまた公学校と呼ばれる初等教育以後は一部の島民男子が学んだ大工養成所など特殊校を除いて教育を受ける場がほとんどなく、日本人家庭の女中などになるケースが多かったが、貫孝は「技芸女学校」として島民女子のための教育の場を開設した。

島民差別を許さず

日本人と島民は能力に差があることが前提とされ、教育を分けることが常識とされていた。ほんの一部の名家出身で優秀な島民男子がサイパン実業学校に進むケースも散見されたが、日本人より優秀な島民がいても「優等」表彰を受けることは許されなかった時代である。貫孝もまた、日本人と島民の教育の場を分けはしたが、娘を内地に教育にやる資力のない農民たちに思いを寄せ、男子のように教育を受けることのできない女子の立場に疑問を抱き、さらに、高等教育は不要と考えられていた島民にもさらなる教育の場を、と常に軽んじられてきた存在に目を向けていく姿勢は、仏教者として人間の平等と教育の可能性を信じていた貫孝の理念をよく表している。

南洋寺ができて5年後には東京・小石川の源覚寺から鐘を譲り受けた。この鐘を鳴らすと隣のテニアン島まで音が届いたといい、貫孝の息子孝壽もおはじきで数えながら除夜の鐘をつかされたことを記憶している。この鐘はサイパン戦を経てアメリカに持ち去られ、昭和49年に再び源覚寺に返還されることになる。

昭和9年、東京で開かれた汎太平洋仏教青年大会に、貫孝は6人のチャモロ青年を伴って来日した。青年らを交えての当時の座談会の様子が、『大法輪』創刊号に掲載されているが、その中で貫孝はサイパンの「心なき内地人が島民を馬鹿扱ひにするのは非常に困ります」と発言している。貫孝はチャモロたちがスペイン統治時代の名残で敬虔なカソリックであることを知り、仏教を説くことはしなかった。貫孝にあったのは、ただ民族の違いをこえて能力に差はなく、人は平等であるべきだという強い確信であっただろう。柔軟で人間的魅力にとんだ貫孝を信頼していたからこそ、青年たちはキリスト教の神父たちの反感を買いながらもこの仏教大会に参加したと思われる。

ちなみに、この来日時にも貫孝は中村屋の相馬夫妻のもとに挨拶に訪れており、旅費などの資金的援助を受けたかと思われる。貫孝はこのとき知恩院での歓待も受けているが、知恩院の僧侶たちが芸者を並べて歌え踊れともてなそうとしたやり方に反発し、青年たちを引き連れて退席している。僧侶としての潔癖を求める厳格な一面も持っていたことを示すエピソードだ。

八丈島で香料栽培

昭和19年サイパンに戦火がせまり、貫孝は19歳だった愛娘弥生を失う。敗戦で多くの日本人移民が無一文となり、帰国したが、貫孝は内地にとどまらずそのまま八丈島に渡っている。八丈島からサイパンに渡った人々は、そもそも島での暮らしがままならなかった人がほとんどだ。戦後の暮らしの再建も目処もつかない、そんな大勢の人々と共に、敗戦時すでに51歳となっていた貫孝は八丈島へ渡ったのだ。

貫孝にはあるもくろみがあった。インドや東南アジアを視察した若い頃に知ったと思われる香料栽培に目をつけたのだ。東京の香料会社、曽田香料と話をつけた貫孝は八丈島に農場と工場を開き、ベチバーというインド原産の植物を中心に香料栽培を始めた。試行錯誤の中、効率的な香油抽出法を工員らが生み出し、ビジネスとして軌道に乗せた。10年近く順調に続いた工場経営だったが、やがて輸入香料の割合が増えて曽田香料の方針も変わり工場は閉鎖する。現在八丈島中之郷には工場跡地があり、近くに住む数人の当時の工員たちが貫孝の記憶を伝えてくれる。

やがて内地に戻った貫孝は、横浜で易をしたり茶道を教えたりしながら細々と暮らした。千葉の無住の寺に入ることも考えたがかなわず、最後は所沢の団地で息子夫妻のそばで亡くなった。享年89歳。

師の渡辺海旭に比べると、貫孝の一生はほとんど人に知られていない。しかし、大東亜共栄圏という軍国日本の夢が肥大化していた時代、サイパンでも神社が作られ、島民に日本語が教えられ、多くの仏教者が戦争賛美に流されていった時代に、そこで民族の違いを超えて人間の平等を考え、一人奮闘した僧侶がいた事実に私は救われるような思いがする。サイパンを含め日本が支配を広げたあちらこちらでスローガン化され、空しく響いただろう「民族協和」という言葉の本当の意味を貫孝は知っていたに違いない。いや、戦後は八丈島に渡った貫孝ならば、「民族協和」じゃありません、「人間協和」です、と笑ったかもしれない。晩年まで安住の寺を持ち得なかった流浪の僧侶に、真の仏教者の素質を見る思いがする。