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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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自然災害と宗教者の役割 ― 支援者は想像力を働かせよう

龍谷大世界仏教文化研究センター博士研究員 金沢豊氏

2016年5月13日付 中外日報(論)

かなざわ・ゆたか氏=1980年、京都府生まれ。龍谷大大学院文学研究科修了。博士(文学)。浄土真宗本願寺派総合研究所研究員を経て、現職。東北大実践宗教学寄附講座学外委員。専門はインド仏教。論文に「震災復興支援活動~宗教者としての学びと気づき~」他。自身の東日本大震災の被災地支援活動を記録した書籍として藤丸智雄『ボランティア僧侶』(同文舘出版、2013年)。
人を救うのは言葉なのか

死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。(池田晶子『あたりまえなことばかり』)

私は東日本大震災の被災地で被災者の居室訪問などの支援活動に関わる中で、多くの医療者や宗教者と出会ってきた。この5年間、上の言葉を噛み締めては飲み込み、拒絶しては認めを繰り返してきたように思う。

なぜならば、医療者や宗教者の発する言葉について問い直しつつ、宗教者である自身の言葉に細心の想いを込めてきたからだ。

しかし、細心の想いを込めた言葉であっても、すべての人に是認されるわけではなく、時には相手の意に沿わない表現を投げかけてしまった経験もある。

これで完璧という言葉は、私という迷いの存在が発語する限りあり得ない。言葉は人と人との関係性の上で変化する生き物のようなものだと思うからである。

したがって、医療や宗教の上位に言葉を置く池田晶子の考え方に新鮮味を覚えると同時に、冒頭の池田の言葉に対する疑いも存在し続けている。本当に医療は、宗教は「絶望の底にある人」を救えないのだろうか、と。

支援と教訓

九州中部を襲った激震は、多くの人の生活を一変させた。本震から1カ月近くたっても情報は錯綜し、人の流れも混濁している。地域によって被災の度合いが異なり、同じ熊本県でも、大分県でも状況が違うといった声があることは想像に難くない。

おそらく、避難生活を強いられている困難な状況の方も、普段通りの生活を続けている方もおられる。もちろん、一見普段通りでも誰にも言えないような思いを持ち苦しんでいらっしゃる方もいるだろう。いつ起こるかわからない余震に不安を抱き、地震自体が嘘であって欲しいと思っている遺族の方々が多く存在している。

ただ、直接被害を受けなかった地域から九州の被災地を伺うと、途方もなく絡み合った情報の下に被災された方々の生活があるように感じる。これは、東日本大震災直後の被災地でもそうであったように思う。

だからこそ、被災地に出向き、生の声を聞き、ネットワークを構築することは重要で大きな効果があると思う。そこから支援の糸口を見つけ出し、刻々と変わるニーズに応えることができる。

被災された方のために、各教団は支援の手立てを作り、個々の宗教者も間断なく動いている様子は報道の通りである。しかし、やみくもに動けばいいというものでもない。そこで東日本大震災からの教訓を踏まえるため、支援の現場で感じたことを少し振り返ってみたい。

過ちを繰り返さない意識

緊急支援時に必要なことは「怪我をした人には応急手当」「行き届きにくいところへの物資の配給」「小さな寄付ならば身近な人や組織に」という基本的なことである。非常にシンプルなことなのだが、混乱が表面化するのも実はこの時期である。

それは、同じ方向を向いているはずの支援者同士の足の引っ張り合いであり、些細な配慮の行き違いなどである。それを解決するには、苦悩の要因を見極めてから支援をスタートすることであり、目的を明文化することである。

そうすれば、支援者同士が同じ被災された方の方向を向いている意識をともに持つことができ、役割分担を明確にすることができれば余計な軋轢は生まれない。

また、次に起こり得る事象として注意したいのは、非当事者の思い込みが刃に、先入観が暴力になる可能性があるということだ。

例えば「自然災害はいつどこで誰に起こり得るかわからない。だから日頃の生活から災害に備えましょう」。防災や人的被害を抑えるための減災の重要性がこういった言葉で説かれている。もちろん、それは一面的には正しく否定のしようがない。

しかし、それだけでは被災された方は「備えを怠った人たち」という理解になるのではないかという疑問も残される。つまり、外部から防災の重要性を説けば説くほど、被災された方にとって後悔の念のような二次被害が広がるという側面があるのだ。

東北の三陸沿岸部では仮設住宅から次の住まいへと移行が進む中で、引っ越して安心したという方と、引っ越したものの不安で仕方がないと訴えてこられる方もいる。人々の思いは本当に多様で「仮設住宅を離れることができて安心だろう」というような先入観から生まれる軽薄な言葉が被災者を傷つける事実があるのだ。

震度7を記録し、1500棟以上の住宅が全壊、半壊した熊本県益城町では発災から1、2カ月の間に仮設住宅2千戸を目標に整備するという。

ただ、いくら月日がたとうとも、いくら建物が再建されようとも、癒えない心が存在し続けることは、東日本大震災で得た一つの教訓だ。そしてまた、助けを求める人がいる一方で、「静かに暮らしたい」方も確実にいらっしゃるだろう。

支援者は、持てる全ての想像力を使って活動をして欲しいと思う。実は、そこにこそ宗教者が注意を払うべき心があるようにも感じている。

いま、私たちにできること

いま、世界の人々が日本の被災地に心を向けてくれている。自然災害は世界のどこでも起き得る普遍的なものだからだ。そして多くの方が向けてくれている心は被災された方の力になる。

「多くの人が被災地のことを想ってくれている。その事自体が支えになる」。東北の被災地でそのような声を聞いたのも2度や3度ではない。今後、心配や祈りを超えて二次被害が拡がらないよう努めることは、いまの私たちにできることではないだろうか。

おおよそ、メディアを通じて大きく響くのは極端な声だ。それによって右往左往することはもうやめよう。想像力を持って、言葉を練っている自覚がないのなら、TwitterやFacebookに発信や投稿などをする“軽薄なメディア”になることをやめよう。それらを通してネット情報を拡散する前に、もう一度その情報を見直してみよう。身の丈を自覚して行動し、むやみに他者を巻き込むことはやめよう。

せめて、そのような意識を持って生きることは、過ちを繰り返さず、教訓を生かすことにつながる。ひょっとすると、もうすでに「支援」なんて懲り懲りだと感じている方もいるかも知れない。

しかしそのように思ってしまう「支援」は誰のための支援なのかもう一度考えてみよう。究極のところ誰のための行動なのか、もう一度考えよう。もし自分のためであるならば、自分が活躍する場は被災地の他にあるはずだ。緊急支援が必要な被災地は、支援者が輝くための場所ではないという当たり前のことを知ろう。

言葉を大切にする仏教徒として

日常の生活、活動、仕事を犠牲にして新たな活動ができる人は限られている。身の回りを大切にせずして、自分の感知できる範囲を超えた人や物事を大切にすることは難しい。

何より、ボランティア活動は尊いからこそ無理をしてしまう。志は大切だが、思いだけでは身を滅ぼすことがある。だからあえて冷静に、できることは何かを考える時間を作って欲しい。

それは一人より複数人の方が好ましい。可能であればアドバイザーを招くのがベストだろう。客観的に見る要素を含みつつ、できることと、必要なことを発災からの時間軸を作り考えて欲しい。その際に、もし自分が被災したらどうして欲しいかの視点も忘れずに入れておきたい。

その上で、自然災害における宗教者の役割は、今後一層問い続けなければいけない課題である。改めて宗教(仏教)が人を救う可能性はどこにあるのだろうか。

冒頭の池田晶子の言葉への応答を自分なりにするならば、宗教者は、祈ることを目的として、祈るだけで満足しないように注意をしたい。おそらく、祈る、念じることから始まる活動があるのではないだろうか。

阿弥陀如来の救いにあずかっている自分自身にできる精一杯のことは、言葉にならない出来事を前にして、言語活動を諦めないということである。

押し広げていうと、真理の媒介者である宗教者は、悩みながらも言葉を大切に発していくことが一つの役割になるのではないだろうか。なぜなら、私にとっての仏教が言葉を大切にしてきた宗教だという確信があるからである。

言語活動に依拠することなくして、勝義諦(最高の意義、真理)は説示されない。(龍樹『中論頌』第24章第10偈)

相手への想像力を持った宗教者の言葉は、絶望の底にいる人を救うことができると考えている。