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人材育成を可能にする文化と教育風土とは何か

明法学院アーカイブス責任者 髙野進氏

2016年11月11日付 中外日報(論)

たかの・すすむ氏=1944年、東京都生まれ。都立第四商業高卒。会社勤務を経て、霊友会広報室長、同会参事・編集局長、同会福祉センター理事・所長、明法50周年誌編集長など歴任。現在、日本チュニジア友好協会理事、霊友会福祉センター理事、明法学院アーカイブス責任者ほか。編著書に『日本の風景』『日本のたたずまい』『アメリカ強制収容所』など。

霊友会によって設立された明法中学・高等学校(東京都東村山市、川岸良之理事長・大谷泰造校長)は、平成26(2014)年に創立50周年を迎えた。開校以来、建学の精神「人格識見を培い、将来、社会の福祉、国家の繁栄、人類の平和に寄与する人材を育成する」を掲げてきたが、50周年を期して、21世紀を切り拓く新しい教育である明法グローバルエンデバーズ(略称・明法GE)を導入したところである。

昭和39(1964)年の設立の趣旨として、「この学校は霊友会が理想的な学校教育の場を実現して、社会に奉仕しようという念願によって設立されたものである」とある。当時の教育界、とりわけ中学・高等学校においてはいろいろと問題が生じていた。中でも6・3・3制は上級進学希望者に不必要な負担をかけ、学校生活それ自体が受験対策になる傾向が顕在化していた。それを打破するために、男子中・高一貫の新しい教育の場として、明法は設立された。学生寮も完備しており生徒は全国から集まった。

時代は下って現在、社会の要請に応える形で、公立の中・高一貫校の設立が相次いでいるが、50年前にその先駆けをなす学校として誕生していたのが明法である。

さて、ここで小論を試みてみたい。教職員いわんや経営に携わるものでもない私が、それをするのには理由がある。同校の『五十周年誌』(本紙2015年3月4日付に詳しい)の編集を委嘱され、3年半に亘り学校内にある様々な資料を閲覧した。その最中に、ひとつ学校内でここしばらく関心が持たれてこなかった形跡があるものに出会った。

それは、学校の蔵書の中に含まれていた個人著作集(「文学全集」「評論集」など)であった。タイトル105、冊数は1700超を数える。そこで、この蔵書の存在自体が、学校が営々と築いてきた文化のひとつであり、学校が創り出す教育風土ではないかとの、単純明解な推論を立て次に考察を試みる。

所蔵著作集の著者を何人かを紹介しておきたい。夏目漱石、島崎藤村、志賀直哉、武田祐吉、折口信夫、岡本かの子、獅子文六、久保栄、川崎長太郎、臼井吉見、原民喜、井上光晴――(誕生順)。

そのほとんどは、設立から10年余りの学校草創期に、生徒のための図書館整備と国語科教諭の研究、参考資料として購入されたもので、一般書店はもとより古書店からのものも含まれている。いずれも教員の見識によって購入されたものであることは明らかだが、図書委員の生徒の努力も垣間見ることができる。著作傾向の違いが歴然としているだけに興味深い。

これらは、わが国の戦後、名のある出版社が先を競って、時には社の威信をかけて、あるいは出版文化に対する使命感も手伝って、採算を度外視しても刊行したものである。明法がそれらを購入してきたこと自体、学校の文化であり、教育風土を創り出す遠因のひとつではないかと考える。

所蔵している図書館(蔵書は約3・5万冊)について言えば、学校設立から3年目の昭和41(1966)年に、教科、職域も越えた文字通り教職員総がかりで編集した『読書案内』(90ページ)の小冊子を刊行している。

その巻頭に伊川靖生・理科担当教諭(第5代校長)が、「手垢にすり切れ、表紙がぼろぼろになった本。(略)図書館の年輪とはそういうものでは」と述べている。

一方、教職員の研究誌『明法学院紀要』は昭和46(1971)年に創刊号が刊行され、「日本歌謡史研究」上條彰次(国語科、のちに静岡女子大学=現静岡県立大学教授)から、「排気ガス分析によるエンジンの混合比の推定」芦ヶ原伸之(理科、世界的なパズル作家)まで、幅広いテーマで15本の論文が並んだ。

その巻頭では、安孫子理・第2代校長が、「今後教職員諸君と共々、本誌を自己伸長、実力増進の一手段として、日常の努力を重ね、人間的にも学問的にも、内容を高めること」と述べている。

では、教室ではどのような教育が進行していたのか。当時としては画期的な手法であった「国語レポート」作成(のちに「高二論文」、現在は「高一論文」)という取り組みであった。発案し定着させたのは橘壮一・国語科教諭であった。また並行して生徒との読書会も開かれていた。それを継続させる役割を担った水野隆憲教諭は、『五十周年誌』の誌上座談会で、次のように証言している。

「(当初は)文学に限ったのですが、生徒が段々興味が多岐に亘るようになったので、学校全体、全教科の教諭が担当することになった」と。続けて、中学での徹底した読書指導、「高二論文」では400字詰めの原稿用紙で40枚の「能楽論」を書く生徒(表きよし・国士舘大学教授)、同じく83枚で「作家論」を書いた生徒(笹川博司・大阪大谷大教育学部長)などを紹介している。

これらの教育の中から、例えば、南淵明宏・心臓外科医をはじめ、イギリスでiPS細胞を研究する人、アメリカでパイロット資格試験官をする人、ドイツを舞台とする声楽家。はたまたJリーグの審判員・国際審判員として活躍する人など、国内、海外を問わず世の中のあらゆる分野で活躍する多士済々の人物を輩出している。

水野教諭はこうも言っている。

「(論文の)演題は現在とは直接は結び付かなくとも、必ずや奥の奥でつながっていると思っている」

その論文作成の過程でも使われたであろう著作集を含めて、現在、明法学院では明法学院アーカイブス(記録保存)の一環として、蔵書の目録づくりの作業が行われている。この目録づくりの中で思いがけないことが分かってきたのである。

第一に、第2代校長の安孫子理先生が、ご自身の「理文庫」の中から歌人・美術史家・書家として知られた會津八一の著作集『會津八一全集』(中央公論社刊)を学校に寄贈していたことだ。なぜか。それはご子息で同校の理事でもある、安孫子正・松竹㈱取締役副社長の「父は會津先生が旧制早稲田中学で教師(教頭)をされていた時の教え子です。書簡の行き来があったほどです」。この言葉で謎が解けた。私が先月訪れた新潟市會津八一記念館では、湯浅健次郎学芸員が、「安孫子先生は、八一の愛弟子でした」と語っていた。

第二には、古川久先生のことである。学校開設に尽力し、大学で教鞭を執る傍ら、明法で講師も勤めていた著名な国文学研究者である。わが国の文学個人全集の最高峰と言われる『漱石全集』(岩波書店刊)の校訂者でもあったが、最近、旧制松本高校の教授時代に作家・辻邦生に大きな影響を与えた教育者と言われている。昨年夏に訪れた学習院大学史料館の冨田ゆり学芸員から「『辻邦生日記』には、よく古川久先生のお名前が登場するんです」。

教職員だけではない。50年の歴史の中で常に学校を見守り支えてきた明法父母の会の存在。その中心となる役員には、様々な分野で活躍する人たちが就いてきた。そこには例えば、初代会長の表章・法政大学教授、第11代会長の竹本幹夫・早稲田大学教授らの有識者も含まれている。

このように、明法中・高等学校の蔵書の個人著作集を糸口に、霊友会が創設した学校の文化と教育風土とは何かが見えてくる。