ニュース画像
笏を宗道氏(左)に手渡す宗晴氏
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

満洲事変前夜の『中外日報』と反宗教運動 ― 近代日本の宗教≪1≫

龍谷大非常勤講師 近藤俊太郎氏

2017年1月3日付 中外日報(論)

こんどう・しゅんたろう氏=1980年、京都府生まれ。龍谷大大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻単位取得満期退学。博士(文学)。2009年から現職。専門は仏教史(近代日本)。著書に『天皇制国家と「精神主義」―清沢満之とその門下』(法藏館)、共編著に『近代仏教スタディーズ―仏教からみたもうひとつの近代』(同)。
忘れ去られた運動

満洲事変前夜の日本で、マルクス主義者による宗教批判が活発化し、宗教撲滅を目指す運動が起こったことをご存知だろうか? その運動を反宗教運動という。宗教はアヘンであり、民衆の階級闘争を抑圧し、支配階級に奉仕する役割を果たしているから撲滅しなければならない――反宗教運動はこう主張し、宗教界に大きな衝撃を与えた。

以下、現在ではほとんど忘れ去られたこの運動について考えてみたい。

『中外日報』が論争の舞台に

実は反宗教運動が出発した1931年の前年に、その伏線となるような論争があった。マルクス主義者と宗教(学)者の多くが参加した「マルクス主義と宗教」論争である。そして、この論争の主たる舞台となったのが『中外日報』であった。

『中外日報』では、1920年代後半より、マルクス主義と宗教との関係をテーマにする記事が紙面をにぎわしていた。その背景には、ロシア革命以降にマルクス主義への関心が高まったこと、そして1927年の金融恐慌や1929年の世界恐慌などによる経済不安があった。恐慌が日本社会を襲ったとき、経済的格差を鋭く批判するマルクス主義は人々の共感を集めた。こうした状況と並走しながら、マルクス主義関係文献の輸入・翻訳が進められ、マルクス、エンゲルス、レーニンらの宗教批判が紹介された。

「マルクス主義と宗教」論争

宗教批判の輸入と理論的整備が進められるなか、1930年1月1日の『中外日報』の1面冒頭に、三木清の論文「文芸と宗教とプロレタリア運動」が掲載された。そこで三木は次のように主張した。宗教は、つねに弱き者、貧しき者、虐げられた人々の味方であろうとした。だから、宗教は、一切の人間の解放を目指すプロレタリア運動と結合すべきである。また、いかに矛盾なき社会が到来しようとも、宗教は決してなくならない。

この三木の論文は実に大きな反響を呼んだ。賛否両論、談論風発のなか、特にマルクス主義陣営から厳しい三木批判が巻き起こった。というのも、宗教批判に立つマルクス主義者にとって、マルクス主義と宗教との結合など成立しようがなかったし、社会主義社会において宗教は自然的死滅を迎えるはずだと考えられていたからである。

中外日報社の企画により、同年1月16日に「マルキシズムと宗教」、3月18日に「仏教とマルクス主義」と題する座談会がそれぞれ開催された。宗教批判に立つ闘士と宗教界の名士を集めたこれらの座談会では、宗教の定義、宗教の革命性、宗教と搾取、マルクス主義者と宗教家・社会民主主義者の連帯、宗教の自然的死滅、マルクス主義者の葬式など、様々な論点をめぐって議論が交わされた。

論争は加速する一方であったが、マルクス主義者は宗教批判の理論的深化ではなく、大衆を巻き込んだ実践運動をどう展開するのかに関心を集中させていった。

反宗教運動の出発

1931年4月7日、反宗教闘争同盟準備会(以下、準備会)が発足した。川内唯彦を中心メンバーとするこの準備会が、反宗教運動の中心的組織である。

準備会は、5月23日に宗教打倒演説会を東京の上野自治会館で開催し、運動を本格化した。『中外日報』では、入場者1200名、入場不能者1500名という盛況ぶりを伝え、また『東京朝日新聞』では会場の内外に数十名の警官が警戒体制を敷き、開会前から検束者が出たと報じた。

6月、準備会は機関誌『反宗教闘争』を創刊した。この創刊号は3千部を刷ったという。同誌はその後、第1巻第3号まで刊行されたが、すべて発禁となっている。準備会はこの機関誌や7月に刊行した『反宗教闘争の旗の下に』で、支配階級と癒着する寺院や教団を攻撃した。そして、階級闘争を担う戦士へと大衆を変容させるために反宗教運動を推進すると主張した。

準備会のメンバーは、機関誌・論集の刊行だけでなく、講演会、ピクニックの開催やビラ撒きなどにも積極的であった。ただ、これらの活動、特に国際反戦デーでのビラ撒きが官憲を刺激したようだ。準備会は8月13日に本部の事務所で同志5名の検挙、24日にアジト急襲と5名の検挙、9月2日に不審尋問で機関誌の原稿押収といった弾圧にあった。

仏教界の反応

マルクス主義者の宗教批判に対して、宗教界からは種々の興味深い応答があった。そのうち、仏教界の応答のいくつかを見よう。

まず、宗教批判に共感的態度を示したのが、三浦参玄洞や妹尾義郎らであった。彼らは、恐慌のなかで経済的・社会的優位にあった寺院や教団の現状を批判的に捉えており、他方で、仏教の本来性には教団の現状や資本主義を批判するだけの根拠があるとも考えていた。つまり彼らは、マルクス主義の問題提起を引き受け、仏教の自己変革を目指したのである。

仏教界では反宗教運動に対抗する組織がいくつも結成された。たとえば、田中舎身や武田豊四郎らの大乗会が組織した反宗教思想折伏連盟もその一つである。この組織には、当時の著名な仏教徒、思想家、政治家が名を連ねた。反宗教思想折伏連盟は、ソビエトを祖国視するマルクス主義者による亡国的政治革命に対抗する愛国的運動を自称し、既成宗教の腐敗を克服して宗教的信念により祖国日本に貢献しようとした。

ほかにも多くの仏教徒が反宗教運動に反論した。反論の中心は、マルクス主義者の宗教理解が平板かつ陳腐であること、仏教が社会的機能では把握できない内面性・精神性を有すること、であった。そこには原始宗教やキリスト教、宗教一般に解消できない仏教の独自性についての主張があった。

反宗教運動の終焉

こうした反論に対し、反宗教運動も徹底抗戦で応じた。支配階級に奉仕する宗教のアヘン性がいよいよ明確化したと言わんばかりであった。さらに反宗教運動は、宗教批判に共感的態度を示した宗教者さえも、徹底的に論難の対象とした。たとえ宗教批判に理解を示したとしても宗教を捨てないかぎり敵対勢力と見たのである。こうした徹底抗戦の態度は、反宗教運動を社会的孤立へと向かわせた。

1931年9月、準備会は日本戦闘的無神論者同盟と改称してその結成大会を開いた。このとき、論争の過熱ぶりは、ちょうどその頂点を迎えていた。

しかし、同月18日に状況は一変した。満洲事変が勃発したのである。それまで日本社会を騒がしていた反宗教運動は新聞・雑誌から消え、代わって、民族的公憤や祖国愛といった精神的雰囲気が日本社会を覆った。仏教界の戦時体制への再編も一挙に進められた。

まるで行方不明になったかのような反宗教運動であったが、それでも非合法的活動を1934年5月まで続けた。反宗教運動の嵐は、こうして忽然と姿を消した。

突きつけられた課題

仏教界にとって反宗教運動はさしたる脅威とは映じなかったようである。論争が沸点を迎えたタイミングで突如消失したこともあるが、仏教界からの応答は断片的なものにとどまっている。仏教界とマルクス主義がそれぞれ置かれた社会的位置からすれば、仏教界はまともに応答する必要を感じなかったのかもしれない。

とはいえ、満洲事変前夜のマルクス主義と仏教をめぐる一連の出来事は、いまなお宗教界に鋭い問いを突きつけているのではないだろうか。

資本主義の抑圧性が状況の全体を覆ったとき、宗教が果たすべき役割とは一体何か――、と。