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近代仏教の構造を捉える ― 近代日本の宗教≪2≫

上智大教授 島薗進氏

2017年1月20日付 中外日報(論)

しまぞの・すすむ氏=1948年生まれ。東京大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。専門は宗教学。東京大教授、国際宗教研究所所長など歴任。現在、東京大名誉教授、上智大神学部特任教授・グリーフケア研究所所長。著書は『現代救済宗教論』『国家神道と日本人』など多数。
葬祭仏教の枠を超える現代の動き

現代の伝統仏教の活動様態という点から話を始めよう。葬祭仏教が日本仏教の底力を支えているとも言える。曹洞宗寺院の出身だった歴史学者の圭室諦成が1963年に『葬式仏教』(大法輪閣)を刊行したとき、この考えが背後にあった。浄土宗の宗教史学者・宗教学者である伊藤唯真と藤井正雄が97年に『葬祭仏教』(ノンブル社)を編んだときも同様だろう。

それは確かにそのとおりである。葬祭において仏教寺院と僧侶が大きな役割を果たしてきた、そのことによる日本伝統仏教の強みは、今後もその力を発揮していくだろう。だが、葬祭仏教の強みを生かしつつも、その枠を超えていくことを望む声は高まりを増している。そして、実際、その方向への展開が進んでもいるのではないか。現代日本宗教の研究者として、私はそう考えている。

たとえば、東日本大震災の被災者受け入れや支援活動において、伝統仏教界は大いに存在感を高めた。東北大学の実践宗教学寄附講座が関わって臨床宗教師の研修も始まった。現代社会のさまざまな苦の現場で、医療やケアの場において、宗教者によるスピリチュアルケアの機会が広がっており、それぞれに研鑽し経験を積む例が増えていた。

また、自死念慮者・自死遺族、引きこもりの人々、高齢者や貧困家庭やホームレスの人々、外国人や障害者などの孤立しがちな人々へのケアの活動に宗教者が取り組む例も目立っている。現代社会のさまざまな苦の現場が、宗教宗派の枠を超えて取り組む宗教者の活動を促している。伝統仏教はそれに応答しようとしている。

他方、福島第1原発災害を契機に公共領域での仏教界からの発信が注目される機運も生じている。2011年12月に全日本仏教会が「原子力発電によらない生き方を求めて」という宣言文を公表したことは大いに注目された。仏教に基づき環境倫理や生命倫理の問題に発信する人々、発信する機会も増えていっている。

戦争と平和、歴史認識、差別と人権といった問題も同様である。小林正弥監修・藤丸智雄編『本願寺白熱教室』(法藏館、2015年)という書物の反響が大きかったことも思い起こされる。これらは仏教が社会倫理的な声を公共空間に響かせるということだが、前向きに取り組む仏教者が増えており、一般社会もそのことを積極的に評価する傾向が増している。

伝統仏教の公共空間からの後退

では、このような動きはどのような要因によって生じているのか。そして、それは近代仏教の構造という観点からすると、どのような変化として捉えることができるのか。

ここで生じる問いがある。近代仏教はどの程度まで葬祭仏教の枠内にとどまっていたと言えるのか。別の問い方をすると、戦後の葬祭仏教のあり方を「近代仏教」全体に投影して見すぎてはいないかということである。

たとえば、伝統仏教の社会福祉的な領域への関与が目立たなくなったのは、近代の中でもある時期以降のことではないか。近代仏教史の領域で意義深い仕事を重ねて来ている中西直樹は、著書『仏教と医療・福祉の近代史』(法藏館、2004年)の冒頭で、「近代以降、仏教者が医療救護の面で果たしてきた役割は、従来考えられてきている以上に大きなものであった」と記している。明治中期から昭和初期にかけては「社会事業」とよばれるような領域に積極的に関わっていく姿勢があり、かなりの成果を上げていた。

「その活動は、最初の資本主義恐慌が起こった一八九〇(明治二三)年ごろから次第に活発化し、医療サービスの量・質ともに充実して、今日の医療ソーシャルワーカー(MSW)に近い内容の事業へと発展する事例もあった」

中西氏はこう述べて、1930年頃までは活発に試みられていた伝統仏教の社会活動が、戦中戦後に衰退していったとする。では、どうしてそのような事態が進行したのか。

戦中戦後という時期区分だが、1930年代から70年代をひとまとまりとして見てみよう。この時期は国民の連帯意識がたいへん強く、国民の国家への期待が高かった時代と言ってよい。満州事変以後の戦時中は総動員体制が進み、その間に社会保障制度も大きく前進した。戦後は福祉国家への期待が大きく、社会的な弱者は国が助けるのが当然だとする考え方が強まっていった。

この時期はまた、新宗教の爆発的な成長期だった。都市化が進むなかで人々の助け合い支え合いの場として新宗教は大いに歓迎された。ひとくちに新宗教というが、そのなかには法華仏教の系譜が大きな位置を占めている。日本の法華仏教の歴史という点からは、この時期は急速な成長期ということになる。また、神仏習合の宗教伝統の系譜を引く宗教運動もかなりの要素を占めていた。伝統仏教の持ち分だったものが、相当の割合で新宗教へと移行したと見ることもできるのだ。

1930年代以前の近代仏教の社会関与

このように見てくると、1930年代から70年代は伝統仏教が社会参加の度合いを弱めていった時期と見ることもできる。『葬式仏教』や『葬祭仏教』という書物が刊行されるようになったのは、伝統仏教の社会参加の後退についての自覚を表すものではないだろうか。

もし、そうであるとすれば、伝統仏教の社会参加という点で戦中戦後に何が後退していったのか、なぜそうなったのかを問うことが重要な課題として浮上してくる。近代仏教について理解しようとするとき、これらの課題に応答することが大きなヒントを提供してくれるはずである。

たとえば国政への関与ということでいえば、1930年代以前の伝統仏教はかなり積極的にそれを行ってきたのではないか。小川原正道の『近代日本の戦争と宗教』(講談社、2010年)は戊辰戦争から日露戦争に至る時期に、伝統仏教が大いに戦争に関与していたことを明らかにしている。たとえば、浄土真宗本願寺派は西南戦争に積極的に関与し、戦後、鹿児島県に大きな寺院勢力を形成するのに成功した。

災害支援や貧しい人のための医療、孤児の支援といった点でも仏教界はさまざまな活動を行った。仏教系の医療施設もいくつも設立された。刑務所等の教誨でも大いに成果を上げた。

出獄者のケアを行う保護司の歴史をたどると、1888年の金原明善らによる静岡県出獄人保護会社の設立に遡る。法務省のホームページの「更生保護の歴史」という項には、「同会社の設立を契機として、各地に釈放者保護団体が、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派等の仏教教団、僧侶や一部のキリスト者によって設立されるようになりました」と記されている。

これは出獄者に衣食住を提供する「直接保護」だが、その後、訪問指導や通信指導を行う間接保護、旅費、衣料等を給貸与する一時保護を行う保護団体も形成されてくる。先のホームページには、「中には、明治42年5月に福井県の浄土真宗本願寺派寺院を糾合して設立された福井福田会のように、直接保護事業を行う団体を中心として、間接・一時保護を行う支部を組織化したものもあり、この支部に保護司の原形ともいえる民間の司法保護委員を配置して事業実施に当たりました」との記述もある。

「近代仏教」像の捉え返し

断片的な引用をしたにすぎないが、たとえば仏教と戦争の関係の歴史、教誨師や保護司の活動の歴史を捉え返すことで、近代仏教についての像が書き換えられる可能性がある。そのことは示唆できたかと思う。すでにこの分野の歴史研究に取りかかっている若手研究者もいる。市川白玄らにより「仏教と戦争」の研究、また、吉田久一らにより「仏教の社会事業」の研究は基礎が作られている。それらをさらに深く掘り下げていくための研究課題は多く、新たな研究から開ける視野の可能性は大きい。

一つの大きな課題は個別宗派・宗教団体の歴史をくみ上げながら、「近代仏教の構造」の理解へと展開していくことだろう。国家神道、教派神道、新宗教、伝統仏教、民俗宗教といった近代宗教の全体を、また、近代の思想史社会史の全体像を視野に入れながら、近代仏教の構造的理解を進めていきたい。そのことによって、現代の仏教系諸団体や仏教者の自己認識と将来展望に、新たな力を付与することもできるだろう。