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相国寺派宗制と仏教教団の自治 ― 近代日本の宗教≪3≫

大本山相国寺寺史編纂室研究員 藤田和敏氏

2017年2月3日付 中外日報(論)

ふじた・かずとし氏=1972年、愛知県生まれ。立命館大文学部史学科卒、京都府立大大学院博士後期課程満期退学。博士(歴史学)。現在、大本山相国寺寺史編纂室研究員。著書に『〈甲賀忍者〉の実像』『近世郷村の研究』『宗門と宗教法人を考える―明治以降の臨済宗と相国寺派』。
神道国教化政策と教導職管長の設置

近代の仏教教団は、明治初年から新政府が推進した神道国教化政策によって、新たな宗教政策の枠組みに組み込まれることになった。神道国教化政策とは、「神武天皇による国家創業の政治」への復帰を理念とする王政復古のクーデターにより幕府から政権を奪取した新政府が、宮中祭祀を担う天皇の絶対的な神権性を強調するとともに、神道に基づく国民教化を実施することで自らの権力を正統化しようと試みたものである。

神道による国民教化は大教宣布と呼ばれ、国家から教導職という役職に任じられた全国の神職と僧侶が教化の最前線に出ることになった。神道による教化を行う教導職に僧侶が就任することは奇妙な話であるが、これは廃仏毀釈などで大打撃を受けた仏教教団が、巻き返しを図るために国家に対して次のような主張を行った結果、実現したものである。主張とはすなわち、説法に慣れた僧侶の方が神職よりも国民教化に向いており、新たに国内に浸透し始めたキリスト教に対抗するためにも有効だとするものであった。

1872(明治5)年4月25日に、大教正など14等級の教導職における役職が設けられることにより教導職制度は始まった。それとともに、この段階での仏教諸宗派は天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗の7宗派にまとめられ、布教伝達の人材養育と末派寺院の取り締まりのために、各宗派の監督者が教導職管長と呼ばれる役職に就くことになった。現在でも宗派の長を管長という役職名で呼ぶことが多いが、これは教導職管長に端を発したものである。

神道国教化の破綻と1884(明治17)年太政官布達第19号

教導職に就任した僧侶たちは、「三条教則」という大教宣布の大綱に従って国民教化を展開することになった。「三条教則」とは、

第一条 敬神愛国の旨を体すべき事

第二条 天理人道を明らかにすべき事

第三条 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事

の3カ条で成り立っており、国家と天皇と神道を敬うことを謳ったものであった。このような「三条教則」と仏教の教理を整合的に解釈することは困難であり、現場で教化を担う僧侶たちの不満は高まっていった。そしてその不満は、神道国教化政策の破綻へとつながったのである。

新政府の長州閥と懇意な関係にあった西本願寺の僧侶島地黙雷は、留学したヨーロッパで信教自由・政教分離原則が貫徹した政治と宗教の関係を深く観察し、帰国後に神道国教化政策を激しく攻撃した。島地に率いられた浄土真宗が、教導職養成機関である大教院からの離脱を目指して運動を始めた結果、75(同8)年4月に大教院は廃止され、神道国教化政策は頓挫したのである。

さらに、84(同17)年8月の太政官布達第19号によって教導職が廃止された。この布達の第3条・第4条で、管長を公選することと宗派の規則を作ることが規定されている。明治政府は教導職制度によって直接に僧侶を把握することを断念し、宗教を超える宗教として神道を新たに位置づけ直した国家神道体制のもとで、仏教教団に一定の自治を認めたのである。

相国寺派「宗制寺法」の制定と危機に直面する宗派運営

72(同5)年の7宗派は、大教宣布を効率よく進めるために国家によって強制されたものであった。そのような宗派統合は早い段階で破綻し、74(同7)年に禅宗が臨済宗・曹洞宗に分立、さらに76(同9)年に臨済宗が相国寺派などの9派に分かれることになった。

相国寺派は、84(同17)年太政官布達第19号に基づき、同年に「宗制寺法」を制定する。この「宗制寺法」には投票による管長の選任が規定されており、近代的な教団自治を推し進める性格を持ってはいたが、全83条の簡単なものであったために、次第に複雑化する宗派運営に対応できなくなっていった。

廃仏毀釈・上知令などで経営基盤を失った相国寺派宗務本院の財政は、明治20年代以降に悪化の一途をたどった。そのことは宗費の増大という形で末寺財政に転嫁され、宗費の滞納が相次ぐことになった。行き詰まる宗派運営に嫌気を感じた末寺は、相国寺派からの独立を意図し始めた。

97(同30)年9月、富山県高岡市に所在する国泰寺が、宗派からの離脱を願い出る「所轄分離承諾願」を相国寺派管長に提出した。国泰寺は元来、相国寺とは無関係の独立した本山寺院であったが、神道国教化政策に伴い73(同6)年に相国寺派に統合されていた。「所轄分離承諾願」には次のようなことが述べられている。

すなわち、近年臨済宗各派で寺班法(宗費の賦課基準となる末寺の等級規則)を制定しようとしており、このような本山側の動向は国泰寺固有の宗教活動を阻害する――と。

相国寺派は、財政基盤確立を目的とした末寺に対しての新たな規則の作成を意図していたのであり、明治以前に相国寺派とのつながりがなかった国泰寺は激しく反発した。相国寺派は国泰寺住職である梅田瑞雲師を擯斥(宗派除名)することで、取り敢えずは国泰寺の独立を食い止めたのである。

1913(大正2)年「臨済宗相国寺派紀綱」の制定

これ以降も国泰寺は独立への動きを続け、1905(同38)年12月に国泰寺の相国寺派からの離脱が内務省の認めるところとなった。末寺を締め付けた結果、さらなる財政窮乏に陥るという悪循環に見舞われた相国寺派は、宗派建て直しのための新たな手段を模索することになった。それが新宗制の編纂である。

国泰寺独立から7年が経過した12(同45)年に相国寺派の諮問会が開催され、そこで新宗制の原案が審議された。そして13(大正2)年3月に、新宗制「臨済宗相国寺派紀綱」が制定されたのである。

「臨済宗相国寺派紀綱」は全444条であり、1884(明治17)年「宗制寺法」を大幅に増補改訂したものであった。「臨済宗相国寺派紀綱」の要点は以下の3点である。

すなわち、①管長選挙についての規定が充実しており、宗派の民主的運営が意識されていたこと、②懲罰規定が詳細に定められており、反宗派的活動には厳正に対処することが意図されていたこと、③末寺の寺格・寺班を新たに定義づけたこと――である。

「臨済宗相国寺派紀綱」の内容からは、国家神道体制によって仏教教団が厳しく統制されていた明治期においても、僧侶たちの努力によって新たな形での自治を獲得することが可能であったことがうかがえる。「臨済宗相国寺派紀綱」の編纂は、宗派財政の窮乏や末寺の独立という、宗派が抱えていた困難を解決するために実施されたのである。