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信教の自由と政教分離 ― 近代日本の宗教≪5≫

駒澤大名誉教授 洗建氏

2017年3月3日付 中外日報(論)

あらい・けん氏=1935年、ソウル生まれ。早稲田大卒、東京大大学院博士課程満期退学(宗教学)。東京大助手、文化庁宗務課専門職員、駒澤大教授などを経て現在、同大名誉教授。著書に『宗教と法制度』『国家と宗教―宗教から見る近現代日本』(共編)、『日本の宗教』(共著)、『占領と日本の宗教』(同)などがある。
信教の自由の理念

信教の自由は、日本に完全に定着したのであろうか。表面的に見れば、戦前のような大規模な宗教弾圧は見られないし、国体の思想などを強制されることもないから、現在ではもはや問題はなく、今さら論ずべきこともないように見える。しかし、残念ながら信教の自由の理念は、日本で生まれ育ってきたものではない。近代に入ってから、ヨーロッパ近代法の理念として継受したものである。

ただ、信教の自由の受け入れは、決して順調に行われたわけではない。尊皇を掲げて倒幕を果たした明治政府は、天皇の神聖な正統性を権力の基盤とするためには、神道を国教化し、宗教を統制する政策を不可欠なものと見做していたので、当初は信教の自由を受け入れるつもりはなかった。浦上キリシタンの弾圧や、切支丹禁制の高札設置などは、当然欧米諸国の反発を招き、「信教の自由を認めないのは野蛮国であり、文明国とはいえない」とする批判は、不平等条約改正という外交課題を抱える政府にとっては無視できないものだった。

一方、仏教宗派にとっても、神仏分離、社寺領上知令などで経済的打撃をうけ、さらに神仏合同布教の名の下で、政府主導の大教宣布運動に駆り出され、自由な仏教活動が許されなかったことは、不本意なことであった。岩倉具視の欧米視察団から帰国した島地黙雷は「政教を混同し、政府が新宗教を創り出すことの誤り」を批判し、最大の仏教集団である真宗4派が大教院を離れて、独自の活動をすることを宣言した。

このような内外の圧力を受けて、明治政府がやむを得ず信教の自由の保障に言及したのが、1875(明治8)年の「信教の自由保障の口達」である。ここで信教の自由という言葉を使っているが、その内容は「各教団がその教義に基づいて国民教化を自由に行うことを認めるが、そのように行政の保護を受けている以上、天皇の統治を妨げないばかりではなく、民衆を善導して天皇の政治を翼賛するのが、宗教家たるものの義務である」という各管長への通達であり、西洋で成立した「信教の自由は各人の生得人権である」という理念とは、全く異質なものであった。

本来「信教の自由とは、国家が与えたり奪ったりできるものではなく、人間に生まれつき備わっている自然法上の権利である」という理念を、明治政府が知らなかったわけではない。72(同5)年の森有礼の建白書に「欧米では信教の自由は生得人権とされている」ということが明確に述べられているのだから、政府は意図的に歪曲したと言うべきだろう。

89(同22)年に制定された大日本帝国憲法ではさすがに「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)と定めているから、文言上は国民の権利として保障したと言っても良いだろう。しかし、安寧秩序と臣民たるの義務という二つの制限条項を設けているので、自然権として保障したわけではなく、国家が恩恵的に権利を与えるという文脈での権利であった。

現行憲法の「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(第11条)という人権保障の仕方と比較すれば、その違いは明白である。実際、明治憲法が信教の自由を保障しても、宗教公認主義はそのまま維持され、非公認の宗教は宗教に類似しているが本当の宗教ではない「類似宗教」として、信教の自由の対象から除外されていたし、事実上の公認宗教とされたキリスト教も地方長官が個別教会を許可していたに過ぎず、教派は1939(昭和14)年の宗教団体法成立まで公認扱いされていなかった。

政教分離の導入

日本の敗戦と連合国軍の占領政策により、大きな変革がもたらされた。ポツダム宣言に示された占領目的、すなわち「軍国主義の除去、民主化の推進、基本的人権の保障」を実現するため、GHQは45年10月「人権指令」により、国民の自由を抑圧する法規として、治安維持法、刑法の不敬罪、宗教団体法などの廃止を命じ、12月には「神道指令」により国家神道の解体、さらに政教分離を命じた。

これは日本国憲法に引き継がれ、信教の自由は人権の筆頭項目として「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第20条)と、無条件、かつ日本に在住するすべての人にこれを保障した。人権は不可侵の自然権であるが、他者の人権も同様であるから「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(第12条)とされ、他者の権利を侵害しないことが唯一の人権行使の制約条項であり、国家の都合や政策によっては侵されないものとされた。

このような保障を現実のものとするには、国家が宗教の領域に介入、干渉することを許しては不可能となるので、第20条第1項後段、第3項、第89条で政教分離の制度を設けた。これはアメリカ型の政教分離を導入したものである。政教分離原則には、大まかに分けると、アメリカ型とフランス型がある。全く異なる歴史的経過を経て生まれたので、その理念にもかなりの違いがある。

アメリカでは信教の自由を確保する制度とされたので、ウッダードによれば「アメリカでは政教分離は信教の自由とほぼ同義のものと考えられ、区別して用いない人が多い」という。一方、フランスではフランス革命以降も王政が復活するなど、紆余曲折があった。共和制を確立するため、国家から宗教の介入を排除する目的で分離したので、反教権的性格を持ち、国家のライシテ(世俗性)の原理と呼ばれる。日本国憲法制定時に田中耕太郎はアメリカ型を友好的分離、フランス型を非友好的分離と呼び、日本はアメリカ型を導入するものであると説明した。

日本で最初の本格的な政教分離訴訟となった津市地鎮祭違憲訴訟で、最高裁は政教分離の抽象的、一般的説明として「国家の非宗教性ないし宗教的中立を理想とするものである」と述べている。フランスでは「公立学校という公共空間で、イスラム女性のかぶり物(ヒジャブなど)やカトリックの十字架などを着用する」のは、世俗国家(ライシテ)の原理に反するとして、これを禁止した。しかし、日本における国家の非宗教性とは、宗教的中立を意味し、それは宗教間の中立ばかりではなく、宗教と世俗の間でも中立であることを意味するから、世俗主義に与するわけではない。

たとえば、「公営の墓地などで利用者が宗教的法要などを行ったり、武道館などの公共施設を宗教団体の集会に貸し出しても、墓地が無宗教の人の葬儀も差別なく受け入れ、市民の利用を目的とする公共施設を世俗の市民団体と全く同じ条件で貸し出す」のであれば、その公共空間の宗教的中立性は侵されていないので、政教分離に違反しないと解されている。

しかし、政教分離が制度である以上、それぞれの社会の歴史や社会慣習と複雑に関わるので、何が禁止され、何が許されるのかという具体的事案に関しては、必ずしも自明ではなく、個別の事案ごとに判例を積み重ねていく必要があり、その定着はまだ途上にあるといわなければならない。

しかも、信教の自由がバチカン市国や世俗憲法を持たないサウジアラビアなどの特殊な例外を除けば、ほぼすべての国に受け入れられており、きわめて普遍的であるのに対して、政教分離は現在のところ、それほど普遍的であるとは言えないことから、日本の伝統に合わないとして、政教分離の廃止を目指す一部の勢力も存在する。

しかし、信教の自由を求める戦いによって「信仰する権利は国家をこえた自然権である」ことが認められ、その考え方が近代自然法思想に継承されて、不可侵の生得人権を持つ個人の尊厳、自由で自立した個人の契約による国家統治の思想、つまり近代民主主義の思想が生み出されて来た歴史を思えば、近代的市民権の根底にある信教の自由を保障する上で、国家権力の宗教的中立の要請は必然のものであり、今後とも大切に守り育てて行く必要がある。