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大正期「親鸞ブーム」を問い直す ― 近代日本の宗教≪8≫

龍谷大世界仏教文化研究センター リサーチ・アシスタント 大澤絢子氏

2017年4月26日付 中外日報(論)

おおさわ・あやこ氏=1986年、茨城県生まれ。東京工業大大学院博士課程修了。博士(学術)。親鸞仏教センター嘱託研究員を経て、2016年より現職。主な論文に「浩々洞同人による『歎異抄』読解と親鸞像―倉田百三『出家とその弟子』への継承と相違」(『宗教研究』387号)。
親鸞というイメージ

浄土真宗の宗祖・親鸞は、鎌倉仏教を代表する宗教者の一人である。現存する史料において、親鸞自身がその生涯について語ったものはほとんどない。そのため彼がいかなる人生を歩んだのかは、未だ明らかでない点が多い。

そんな親鸞だが、長い時間をかけて語り継がれ、真宗の宗祖にとどまることなく表象されてきた。特に近代以降、多くの文学者たちが親鸞を描こうと試みただけでなく、思想家や哲学者たちの熱い視線が親鸞やその思想へと向けられていき、時として親鸞は、キリスト教や社会主義、あるいは日本主義の立場からも読み込まれていった。

そこで描き出された親鸞像が、史実上の親鸞とは離れたものであっても、そのイメージは紛れもなく親鸞として語られ、親鸞像は大きく膨らんでいったのである。歴史上を生きた親鸞は確かに存在するが、この時期の親鸞像はそれにとどまらず、親鸞という豊富なイメージを通して捉えられていった、とてもユニークな存在と言えるだろう。

とりわけ親鸞は、日本において広く一般に名の知られた宗教者の筆頭に位置づけられる。よってそのイメージは、ある特定の信仰に強く依拠しないながらも、意識的/無意識的に宗教空間に身を置いてきた日本人と宗教との関わり方を考える際にも、重要な示唆を与えてくれるはずだ。

近世から近代へ

そんな親鸞像の大きな転機が近代である。親鸞と他の宗教者との大きな違いは、そのイメージが早くから完成され、確たる信仰の対象とされてきた点にあるが、近代ではそうしたものとは異なる親鸞像が次々と展開されていった。

親鸞に関しては、死後比較的早い時期にその生涯が絵巻(『親鸞伝絵』)としてまとめられており、本山から末寺までが同じ絵相(「御絵伝」)を仰ぎ、同じ伝記(『御伝鈔』)を読み上げることによって宗祖のイメージが固定化されてきたことは、日本宗教史上においてもきわめて特異だと言える。例えば近世では、親鸞を題材とした浄瑠璃が東本願寺によって上演停止を求められており、好き勝手に親鸞を語ってはならなかった事情も垣間見える。

ところが近代に入ると、そのような規制の動きは見られず、多種多様な親鸞のイメージが生み出されていった。とりわけ近代の親鸞像を語る際に欠かせないのが、明治44年の親鸞650回御遠忌法要である。この前後に親鸞関連の書物が数多く刊行され、史学分野においても、親鸞の実像をめぐる議論が活発になっていった。

史学の立場から浮き彫りにされていく生身の親鸞に対して、信仰の立場からそれぞれの思い描く宗祖親鸞聖人像が語り出されていったのもまさにこの時期である。そうした親鸞像のなかには『歎異抄』に寄せたものも多く、『歎異抄』に記された親鸞の言葉が親鸞像を構成する重要な要素に組み入れられていった。

大正期「親鸞ブーム」をめぐって

そうしたなか登場したのが、倉田百三の『出家とその弟子』(大正6年、岩波書店)である。『歎異抄』を素材とした本作は瞬く間に人気を博し、大正年間だけでも百版を超える大ベスト・セラーとなった。性欲を中心とした倉田の煩悶が投影された本作には、愛や死に対する淋しさを訴える、彼の私的な親鸞像が展開されている。ここにはキリスト教の強い影響も見受けられ、キリスト教と出会い、精神と肉体、信仰と自己との二元対立を抱えた近代知識人倉田の苦悩も見いだせる。

この『出家とその弟子』が誘因とされるのが、大正11年からの数年間に起こった「親鸞ブーム」と呼ばれる現象である。この期間に小説家、時代物作家、劇作家がこぞって「親鸞」の名を掲げた作品を立て続けに発表し、各地で舞台が上演されるなど、多様な親鸞像が一挙に花開いたのである。

大正期の親鸞像と言った場合、真っ先に挙げられるのが、『出家とその弟子』である。無論、その反響と大正期の教養人である倉田の深い思考から生まれたことを踏まえれば、それは決して間違いではない。だが、『出家とその弟子』のみで大正期の親鸞像は語ることはできるのだろうか。また、親鸞ブームは果たして、『出家とその弟子』の成功をそのまま受けただけのものだと言えるのだろうか。大正期の親鸞ブームには、自己の問題として切実に親鸞に向かっていった倉田とは異なる一面があると考える。

例えば、親鸞ブームが起こる前後には、資本主義の発展や印刷技術の発達などによって新聞の規模が飛躍的に拡大し、マス・メディアが急速に成熟していく。このブームの嚆矢として活躍した石丸梧平の『人間親鸞』(大正11年、蔵経書院)も、『東京朝日新聞』等に連載されたものであり、それを受容する側も、信徒や知識人など特定のコミュニティーや階層に限らない不特定多数の読者であった。

石丸の作品には、現実の問題に苦悩する、より人間らしい親鸞が描かれており、愛や性の問題を宗教によって昇華させようとした倉田とは大きく異なっている。こうした所謂大衆読者へと向けられた親鸞像の内実は、さらに注目されるべきであろう。

特に新聞小説は、時事が掲載された紙面の一角で断続的に読まれ、しかも毎日配達されるという特異なメディアである。新聞の拡大によってそうした偶発的とも言える親鸞との接触が増加したことの意義は小さくないはずだ。

さらに大正3年には、東京雑誌組合や東京雑誌販売組合が発足して定価販売の実施に重要な役割を果たし、大正8、9年頃から全国的に書店の数が急増している。また、機械による大量生産と販売体制の充実が相俟って雑誌の出版が活発になることで多くの雑誌が創刊され、先の石丸は、独自に個人雑誌『人生創造』を刊行し、野依秀一なども大日本真宗宣伝協会を立ち上げ、大正11年に『真宗の世界』が創刊されている。

彼らをはじめとして、大小の雑誌では実に様々な人物が親鸞をめぐる独自の論を展開している。これらのなかには、宗教者から信徒へ、ではなく、大衆から大衆へ、そして大衆から宗教者、信徒へ向けられた、よりバリエーション豊かな親鸞像が潜んでいる。

親鸞という記号

その他にも、総合雑誌や週刊誌等のマス・メディア、同人雑誌等の小規模メディア、そして演劇や戯曲等の舞台芸術メディアの存在も忘れてはならない。そうしたこの時代のメディアの特性に応じて変化する親鸞像と、それを要請した消費者のニーズ、そして親鸞を求めるエネルギーがいかなるものであったのか、さらなる検証が求められる。

特にこの親鸞ブームにおいて顕著なのが、親鸞における性愛や結婚への注目である。そうした性的なものへの関心の高まりは、厨川白村『近代の恋愛観』(大正11年、改造社)や羽太鋭治『性及性慾の研究』(大正9年、前田書店)など、同時期の恋愛結婚至上主義や性欲論の流行ともぴたりと重なっており、親鸞における性の問題は、同時代の主要なトピックとして読者を引きつけたものと考えられる。

またこのブームは、賀川豊彦『死線を越えて』(大正9年、改造社)や江原小弥太の『新約』(大正10年、越山堂)などのキリスト教文学の隆盛と並列させて再考することも可能だろう。そこから、キリスト教と仏教をめぐる当時のコンテクストにおいて親鸞が喚び起こされたことの意義を練り直す必要もある。

このように、親鸞ブームには単に親鸞の流行という一面からでは捉えきれない問題が実に複雑に絡み合っている。大正期の親鸞像の根本には、人々が親鸞という記号を通して宗教(性)へと巻き込まれていく事態で発生する、消費者(読者)、作者、そして宗教の三者がうごめいているのではないか。大正期は、『出家とその弟子』だけでは語り尽くせない豊饒なる親鸞像で溢れている――。