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新出資料による安楽庵策伝の出自と交流の再検討

愛知県立大非常勤講師 湯谷祐三氏

2017年5月3日付 中外日報(論)

ゆたに・ゆうぞう氏=1969年、名古屋市生まれ。2003年、名古屋大文学部博士後期課程単位取得満期退学、修士(文学)。現在、愛知県立大非常勤講師、浄土宗西山深草派宗学院教授。

笑話集『醒睡笑』の編者にして、「落語の祖」とも言われる安楽庵策伝(1554~1642)の出自については、金森氏の出身とする関山和夫氏(『安楽庵策伝』等)と、それに懐疑的な鈴木棠三氏(『安楽庵策伝ノート』等)との間で長らく論争があった。

関山氏は、策伝が暫住したという檀林立政寺(岐阜市)に伝わる『亀甲山歴代大年譜』に「俗姓金森法印之弟、自ら出家して猶千石余りを領す」などとあることから、策伝は金森法印すなわち金森長近(1524~1608)の弟であり、出家以後も千石余りの所領を有していたとした。

一方、鈴木氏は、金森氏出身説を記す資料がいずれも策伝没後百年以上経過してからの編纂物であり、当の金森氏の系図には策伝の名が見られないことから、金森氏出自説を「架空な物語」とした。

策伝は美濃国三輪の浄音寺で出家した後、上洛して永観堂禅林寺の智空甫叔上人に師事し、その後、天正年間には中国地方で7カ寺ともいわれる多くの寺院を開創・中興したとされるが、それに要した資金・檀越についても、関山氏は伝領した千石余りの所領を利用したとするのに対して、鈴木氏は「意思の力」によって「一介の青年僧でもなしうる仕事であった」とするなど見解を異にし、決着のつかないまま現在に至った。

策伝自身の語るところでは、様々な椿について記した『百椿集』の冒頭に、文禄3(1594)年、策伝41歳の時に堺の正法寺の住職になったことを記すのが最も古い伝記事項で、それ以前の活動について自身何も記しておらず、詳細は不明であった。

昨年9月、筆者は策伝がその住持を務めた京都新京極の誓願寺(現浄土宗西山深草派総本山)に所蔵される資料を拝見するに及び、これらの問題に対する新たな見解を持つに至った。

この資料は現在横長の掛け幅一軸に表装され、「苫屋壺記」と題された漢文体の文章が、30行にわたって墨書されている。末尾には、文禄3年に南禅寺の玄圃霊三(1535~1608)が記した旨の奥書があり、紙の調子や筆致などから見て同人の真筆と考えられる。この玄圃霊三は、豊臣秀吉の対朝鮮外交においてその相談役ともなり、重用された人物である。

さて、この「苫屋壺記」は、「苫屋」と命名された真壺(茶事に用いる茶壺)について記したものである。

まず飲茶の歴史と茶壺の効能について概観した後、「備前岡山宰相公幕下之臣」である「藤田氏左金吾」が洛中にてこの壺を入手し、「抛筌翁」に見せたところ価は10倍となり、藤田氏はこれを宰相に献上して、宰相が藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の和歌にちなんで「苫屋」と命名したという。

ここに出る人物を比定すれば、「備前岡山宰相」とは宇喜多秀家(1572~1655)のことであり、「抛筌翁」とは他ならぬ千利休の斎号である。秀家の臣下であるという「藤田氏」については未詳なるも、同人は入手した壺を利休に見せた後、秀家が「苫屋」と命名した。

次に「相公創建一寺、扁大運、請策伝長老董主席」として、秀家による大運寺(現岡山市・西山浄土宗大雲寺)の創建と策伝の招請が記された後、「長老濃州山県郡三輪里人也。父母以無子、祷富士神産、七歳而離俗慕廬遠宗、嗣西山法於前禅林甫叔、中秊西遊中国」と、策伝の伝記事項が記されてゆく。

これによれば、策伝は美濃国山県郡三輪の里人で、7歳で出家して「廬遠宗」(廬山の慧遠の宗、つまり浄土教)を慕い、禅林寺の前住である智空甫叔から「西山法」(浄土宗西山流の教え)を受け、中年にして中国地方に遊んだとする。

そして、「以故兼領住持旧寺惟五、挿草者七所、大運為最」と、7カ所の寺院建立について述べ、その中でも大運寺が最大であったという(挿草とは草創のこと)。

秀家は大運寺に立ち寄って喫茶した翌日、この苫屋壺を策伝に贈り、策伝はそれ以後春夏秋冬、茶事のたびにこれを用いた。霊三は、禅林寺の現住果空俊式からこの文章の製作を依頼され、隣交の友誼によってこれを書いたとして、「文禄三龍集甲午如意珠日、扶桑一国師派下見南禅玄圃叟霊三」と結ぶ。

さて、策伝の伝記研究から見て、この資料は特に次の2点が注目される。一つは、策伝の出自が金森氏であるなどとは全く言及がないこと。もう一つは、策伝による中国地方の寺院建立の背後に宇喜多秀家の帰依があったということである。「苫屋壺記」が起草された文禄3年は、文禄・慶長の役の中間であり、秀吉晩年の権勢が絶頂期にあった時期である。

後述のごとく、もし策伝が本当に金森長近の弟であったならば、ここにその事を述べないのは全く不自然で、策伝の出自は金森氏とは関係がないと考えざるを得ない。また、秀吉の「五大老」の一人であった宇喜多秀家が策伝の檀越であったというのは、関山・鈴木両氏をはじめとして従来何人も言及していない新しい知見である。

一体、法兄である禅林寺現住果空を介してまで、南禅寺玄圃霊三に「苫屋壺記」の製作を依頼した策伝の真意はどこにあったのか。この「苫屋壺記」なる文章は、策伝所持の真壺の紹介にこと寄せて、実は策伝自身を紹介するのが真の目的であると筆者は考えている。

つまり策伝は、秀吉重用の玄圃霊三の文章により、自分が秀吉恩顧の宇喜多秀家の帰依を受けていることや、利休お墨付きの真壺をも所持することを証明し、もって秀吉全盛期の京阪神の貴紳世界に、高僧にして茶人としての自分自身を押し出す「自己紹介状」にしようとしたのである。ちなみに天正19(1591)年の利休自刃以来、千家再興が許されたのが4年後のこの年、文禄3年とされている(不審庵蔵「少庵召出状」)。

一方、策伝の実兄とされた金森長近は、元来織田信秀・信長親子の家臣で、賤ヶ岳の合戦を契機に秀吉の配下となって以降、12歳年下の秀吉が慶長3(1598)年に逝去するまで秀吉に仕えて転戦し、秀吉没後は次第に家康に親近していった。「苫屋壺記」が書かれた文禄3年当時、長近は71歳で健在であった。

また長近は、利休旧蔵の「利休丸壺」と称される唐物茶入を所持したこともあり(現香雪美術館蔵)、利休自刃後、その長子道安の身柄を預かったとされるなど、茶人としても当時知られており、その養子可重にも茶名があった。この可重の長子が「姫宗和」と称される金森宗和であって、金森氏の茶歴は宗和から急に始まったものではなく、長近以来代々続いていたことがわかる。

秀吉に愛された宇喜多秀家の帰依を受けた策伝が、もし本当に金森氏の出身であったならば、秀吉全盛期の公武社会への自己紹介状として、わざわざ秀吉の顧問である玄圃霊三に製作を依頼した「苫屋壺記」において、自身が秀吉配下の老将であり茶人でもある金森長近の実弟であることをあえて記さぬということは考えられない。策伝はあくまでも「三輪の里人」であって、金森氏とは無関係だったのである。

41歳の文禄3年に堺の正法寺に入寺したことは、策伝の生涯において大きな転換点になったものと思われ、まさにその年に作成されたのが誓願寺蔵「苫屋壺記」である。初めて明らかになった宇喜多秀家との交際の実態など、探究すべき残された課題は多い。