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ハンセン病と近代の宗教 ― 近代日本の宗教≪9≫

國學院大准教授 藤本頼生氏

2017年5月24日付 中外日報(論)

ふじもと・よりお氏=1974年生まれ。國學院大大学院文学研究科神道学専攻博士課程修了。博士(神道学)。國學院大神道文化学部准教授。専攻は、神道と福祉、神道教化論、宗教行政学。主な著書に『神道と社会事業の近代史』『神社と神様がよ~くわかる本』など。

昭和28(1953)年8月15日に施行された法律第214号「らい予防法」が平成8(96)年4月に廃止されてから20年余。かつての隔離政策に基づく苦難の歴史のなかで、とくに東京都東村山市の国立多磨全生園内に建立された宗教施設にかかる経緯を振り返りながら、宗教とハンセン病との関わりについてあらためて考え直す機会としたい。

多磨全生園設立の経緯と宗教施設

多磨全生園は、明治42(09)年9月28日に、公立療養所第一区府県立全生病院として、東京府北多摩郡東村山村南秋津(東村山市青葉町)の地に設立された。同病院は、その後、昭和16(41)年7月1日に厚生省に移管されて国立療養所多磨全生園と改称、現在に至っている。開院にあたっては、身延山久遠寺の僧侶綱脇龍妙が各宗教団体の信仰に配慮する立場から、入所者へ各信仰上の見地から慰安教化を行うための施設建設を光田健輔医長(のち院長でハンセン病患者の強制収容、完全隔離政策の強化を推進)に助言した。しかし、光田は宗教施設の建設が入所者らの宗教感情の紛擾を招く恐れがあるとして、助言に反し礼拝堂建設を推進した。そのため院内では、開設当初から礼拝堂を中心に日蓮宗や真言宗、キリスト教を中心に慰問や布教活動が行われていた。礼拝堂は42年9月に建設され、礼拝堂内の正面に三つの祭壇が仕切りの壁で区切られて並び、中央には伊勢の神宮を祀り、右には日蓮上人の座像、左には阿弥陀如来像が安置されていた。同園の70年史にあたる『俱会一処』(多磨全生園患者自治会編)では、この礼拝の祭壇を「どこにも見ない奇妙な光景」であったと伝えている。堂内では、祭壇の前で、仏教各宗の勤行やキリスト教の礼拝、クリスマス行事など様々な行事が行われ、まさに園内の中心施設として機能していた。

園内で最初に布教がなされたのは、浄土真宗とキリスト教で、開設直後から布教活動が行われた。その逆に入所者で信徒の講が結成されたことによって布教活動が行われるようになったのが日蓮宗である。大正10(21)年に真言宗大師講が結成されて以後は、4宗派による活動が中心であった。

永代神社の設立と廃絶・再興

光田院長時代の大正3(14)年に医師として赴任していた林芳信が、昭和6(31)年に全生病院長に就任したことにより、院内の宗教活動は一変する。林は岡山県苫田郡鏡野町の大美彌神社の社司であった林正心の四男で、警察医から全生病院へと転じた臨床医であるが、戦前・戦後の激動の時代を入所者と苦楽を共にしたことでも知られる。逝去時には、園内の納骨堂に自身の骨を埋めよと遺言するなど入所者との結びつきが強い院長でもあった。その林が院長となって間もない同7(32)年に、入所者の自発的な意志により拠金を集めて自らの労力で丸4年かけて建設されたのが永代神社である。

林は建設にあたり、自ら内務省神社局へ赴いて造神宮副使(神社局長の兼任)宛に申請書を自ら提出して遷宮の余材5石を払い下げた。この林の尽力もあってか、神社局の命名にて社名を「永代神社」、祭神として伊勢神宮(天照大神・豊受大神)と明治神宮(明治天皇・昭憲皇太后)が祀られることとなった。

設立時の祭礼は盛大であり、現入所者自治会の会長である佐川修氏は、平成22(2010)年5月の例祭に参列した折の奉賛会挨拶において、神社の創建当時を振り返り、戦時中の物資が不足するなか、「鳥居の前を通る時にはお辞儀をし、みんなで神社のお祭りを楽しみにしていた。今日の厳かなお祭りに参列して当時のことを思い出した」と述べている。

戦後の永代神社は、占領後の神道指令により、鳥居が解体され、本殿は美術品扱いとして存置したものの、御霊代を礼拝堂へ遷したため、祭祀を斎行することができず、事実上廃絶状態となっていた。この廃絶状態から再興に尽力したのが、昭和23(1948)年設立の神社関係婦人会の連合体である全国敬神婦人連合会と東京都敬神婦人連合会である。

全国敬神婦人連合会では、同28(53)年に京都救癩友の会会長であった高原美忠八坂神社宮司よりハンセン病救済に関する講話を受けたことが契機となって、翌29年5月21日に岡山県の邑久光明園内の光明神社の鎮座祭に玉串料と盲導鈴、長島愛生園に盲導鈴を寄贈したのが同会と国立ハンセン病療養施設の入所者との関わりの嚆矢である。

この寄贈を契機として、同会では、国公立のハンセン病療養所内の神社復興に取り組むこととなり、廃絶状態にあった永代神社を再興できないかという話が持ち上がることとなった。同30(55)年3月19日に東京都敬神婦人連合会が見舞金を持参して、多磨全生園を訪問した際に園の関係者や入所者より、「(入所者の中には)この神社復興の希望もあるが、その資金を国庫からいただけず、そのままになっているのが残念だ」という話もあり、復興に向けて資金面でも尽力した結果、同年5月21日に再興がなされた。

永代神社の未来が照らすもの

以後、例祭については全国敬神婦人連合会、東京都敬神婦人連合会に加え、昭憲皇太后がハンセン病患者の救済につくされていたという御坤徳を受け継ぎ、明治神宮、明治神宮崇敬婦人会も尽力してきたが、近年では、東京都神道青年会の協力も得、多磨全生園と園内の患者たちを中心に日常の維持管理を担っている永代神社奉讃会との合同で斎行している。しかし、奉讃会の会員は園内の有志であったため高齢化に伴い減少、平成19(2007)年より、入所者自治会にその運営を引き継いでいる。

例祭の後には、毎年、全生園園長の他、奉讃会を代表して入所者自治会の会長より御礼の挨拶があるが、自治会に引き継がれる以前の同16(04)年頃までは、奉讃会の代表から「園内の守り神様として、命ある限り神社を守り伝えて行きます」という挨拶がなされていた。近年の挨拶では、入所者の平均年齢が80歳超となっていることもあって、「生きている限りは関係団体の協力を得て祭典を継続していきたい」「入所者がいなくなっても永代神社がいつまでも保存されることを期待する」という旨の挨拶がなされている。こうした挨拶の変化にも見られるように、入所者の高齢化と減少に伴って保育園が園内に建設されるなど、園の様相も刻々と変化しているなかで、この先入所者が不在となった際に、「神社が保存されることを期待する」という故人たちの遺志をいかに尊重し得るか、再興に尽力してきた敬神婦人会にとっても一つの大きな課題となってくるものと推察する。

以上、十分に意を尽くせなかったが、多磨全生園内の永代神社の設立と再興の経緯を整理しつつ、宗教とハンセン病との関わりについて述べてみた。ハンセン病療養施設にあっても、入所者の共同生活の場に感受される存在である神や仏であるだけに、各宗教施設の役割は重要である。それとともに神道と福祉という観点からは、神社が園内の守り神として創建され、入所者の心の拠り所となって今日まで崇敬され続けた意義を考え直すとともに、その護持をどう考えるかという点も今後大きな課題となるものと考える。永代神社の未来をいかに考え、いかに神社を護持していくかは、ある意味、この先の日本社会における過疎化、高齢化に伴う宗教施設の今後を考える上でも大いに参考になるものであると考える。