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宗教は国家を超えることができるのか ― 近代日本の宗教≪10≫

同志社大教授 原誠氏

2017年6月14日付 中外日報(論)

はら・まこと氏=1948年、福岡県生まれ。同志社大大学院神学研究科修了。博士(神学)。日本基督教団牧師。現在、同志社大神学部教授。専門は日本とアジアのキリスト教の歴史。著書に『国家を超えられなかった教会―十五年戦争下の日本プロテスタント教会』など。

周知のように民族宗教は特定の民族において、地縁や血縁を同じくするなかで成立して存在してきた。一般的にはユダヤ教、ヒンドゥー教、神道などがこれにあたる。これに対して世界宗教はこの民族宗教の思想的革新運動としてイエス、釈迦、マホメットなどの創唱者の教えや人格を中心として、偏狭な民族主義を超える内容を提示して成立した。

民族宗教が民族や国家と不可分の関係のなかにあったのに対して、世界宗教はすべての人に対して開かれている。その救済の対象は、人種、民族、国家、国籍、性別、階級を超えて提示される。この意味することは具体的にはその教えの内容が、その社会の周辺、辺境へ、すなわち弱さ、低さ、あるいは社会的に見えにくい存在、マイノリティーへと向かうという解放性を保持しているということである。

それは教祖の言行などが聖書や仏典、クルアーンなどの教典として残され地域のなかで再解釈され続けて今日にいたっているからだ。これらの世界宗教が一定の地域に広がり展開していった当初は、その時代その地域のなかでは新宗教であったはずである。

このようにして成立した世界宗教も、しかし歴史のなかでは当該の地域の民族が形成する国家、すなわち民族や政治、経済、軍事、文化などと深く関わり、政教一致、神政政治として宗教がその基礎を位置づけ、その結果として世界宗教もまた、歴史的現実としては民族宗教化したということをわれわれは知っている。

カトリックやイギリスの国教会のみならずプロテスタントのキリスト教もまた、「ひとつの王国にひとつの宗教(教派)」の原理を長く保持した。今日もなお「キリスト教国アメリカ」というような表現が用いられている所以である。これら世界宗教も国家として国教化している国々があり、また政教分離を掲げる世俗国家においても、ここで言う世界宗教がその社会の圧倒的多数(マジョリティー)となり民族宗教化している。

今日、われわれが自然権あるいは自然法と呼ぶ政教分離や信教の自由の原則が基本的人権として認識されることになったとしても、なお厳然としてこのような歴史的現実がある。

わたしは、これまで日本のプロテスタント・キリスト教の歴史を、またあわせて東アジア、東南アジアのキリスト教を研究してきた。具体的な事例でいえばインドネシアやタイ、マレーシア、さらに共産主義政権のもとにあるインドシナ半島の国々である。世界宗教であるキリスト教、仏教、イスラムも、これらの地域、国々の政治と宗教の関係はそれぞれに多様である。

キリスト教の歴史の研究が「キリスト教史の地域的研究」である時、これらの事例を踏まえて日本の事情を検討する際に、日本はこれらの国々とは異なり、多くの先達によって指摘されているように明治以後の日本の近代化は、欧米の市民社会を基礎づける個人の尊厳、基本的人権の理解などとは本質的に異なるものであった。

日本の場合は、徳川時代の神仏習合、すなわち宗教学的には混交宗教の状況であったものを、明治政府は神仏分離を断行し、神社非宗教論のもとに国家神道という神政政治、政教一致の国家形成を進めた。家の宗教としての「檀家」制度と地域の神社の「氏子」が並立して存在した。そして「神聖にして侵すべからざる」天皇が唯一絶対の統治の大権を掌握した。当然のことながら国家の中心は「神聖」な天皇に集中する。日本が台湾や韓国、さらに満州(中国東北部)、さらには大東亜共栄圏の各地に「神社」を創設した意味はここにある。

19世紀半ばに伝えられた日本のキリスト教にとって、それ以後、いかにしてこの日本社会のなかで認知されるか、市民権を得ることができるかが最大の課題であった。日本のキリスト教会は大日本帝国憲法の発布に際して憲法第28条に「信教の自由」と記されていることを喜び、憲法発布の当夜、祝賀会を催した。井深梶之助は「一滴の血も流されずに信教の自由が保証された」とよろこんだ。

また日露戦争後、日本政府は社会的矛盾が激化すると過激な社会主義運動を弾圧するとともに家族国家論に基づく国民教化を目的として、1912年に「三教会同」をおこなった。それは日本の諸宗教を国民道徳の振興に協力させるためで、教派神道、仏教の代表者とともにキリスト教の代表者も参加した。このときキリスト教会の大勢は政府から期待される宗教となったことを歓迎した。

また日本の植民地であった朝鮮半島において神社参拝が要求されたとき、これに抵抗した同地のキリスト教会に対して、1938年、日本基督教会議長の富田満は神社が宗教ではないと説き、神社参拝は国家の祭祀であり、信教の自由に抵触せず特定の宗教礼拝を強要したことはないと説得した。

結果として朝鮮耶蘇教長老会総会では神社参拝を強行可決した。しかしこれに反対し続けた2千人の信徒は投獄され50人が獄死した。これは神と天皇の二つに対する礼拝の要求であったからである。日本のキリスト教会は、マジョリティーである国家神道の道具となった。

また第1次宗教法案(1899年)、第2次宗教法案(1927年)に際しては、一部の日本のキリスト教会も含めた反対運動によって廃案とされたが、日中戦争が始まって国家主義が進行した39年に宗教団体法案が審議されたときには、キリスト教界はこの法律に宗教団体として「基督教」の文字が初めて入ったことをよろこぶ意見もあり、キリスト教のなかでは反対論はほとんどなかった。

41年には「日本基督教団」が設立された。これは自発的、内発的な結果としての「教会」の「合同」ではなく政府の統制によるものであった。政府はキリスト教を排除しようとしたのではない。政府が求めたのは世界宗教のひとつであるキリスト教が「日本のキリスト教」となることでその存在を許容し、これへの忠誠、貢献を求めたのであった。

このように日本におけるマイノリティーであるキリスト教は、マジョリティーである国家神道という神政政治のなかで市民権を得て社会的認知を得るための歩みを続けた。

そこで日本における世界宗教のひとつであるキリスト教は、どのような局面で世界宗教としての存在を明らかにしたのか、しえたのか、そのような事例があったのか、戦後の歩みから拾ってみたい。

日韓基本条約が締結された65年に、韓国基督教長老会はその総会に際して国交回復した日本のキリスト教の代表者として日本基督教団議長の大村勇を招いて挨拶を受けようとした。しかし挨拶を受けるか否かをめぐって3時間議論が続いた。それは36年におよぶ日本の植民地統治の歴史において、日本のキリスト教会も一定の役割を果たしたと認識されたからであった。

当初は日本代表の挨拶を拒否する意見が多数だったが、最後には僅差で挨拶を受けることに決した。その理由は、われわれの信仰は国家や民族を超えた信仰を持っているのだから、われわれは国家や民族を超えて赦すべきだ、ということであった。

議場の外で3時間待ち続けた大村議長は議場に迎えられ、総会への祝辞とともに日本の罪を謝罪した。韓国のキリスト者は、民族や国家を超えてキリスト教の立場、和解への道を開いたのである。ここにクリエイティブ・マイノリティー(創造的少数者)の存在を見ることができる。

その後、日本基督教団は67年に「戦争責任告白」(正式には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」)を明らかにした。これは戦後の日本社会の政治や文化、報道や学術、宗教のなかで最初に公にされた戦争責任告白であった。この動きは教団以外の他のプロテスタント教会へと広がり、さらに日本の代表的な仏教教団へと広がった。

これは政治問題や社会問題ではなく、宗教であるキリスト教の信仰理解に関する問題である。世界宗教であるキリスト教もまた世界宗教のひとつとしてクリエイティブ・マイノリティーとしての歩みが求められる。