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宗門系学校誕生の近代史 ― 近代日本の宗教≪13≫

田園調布学園大助教 江島尚俊氏

2017年8月23日付 中外日報(論)

えじま・なおとし氏=1977年、佐賀県鹿島市生まれ。大正大大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門は宗教学・教育史学・倫理学。田園調布学園大助教、立教大兼任講師など。神奈川県平塚市・霊山寺住職。編著に『近代日本の大学と宗教』(法藏館)、『戦時日本の大学と宗教』(法藏館)などがある。
一 学校制度・宗教制度という視点

宗門系学校とは学校なのか、宗教施設なのか? この問いが、明治10年代から20年代にかけての時期に行政上で問題となっていた。そもそも学校とは、文部省(当時)が所管して初めて正式な学校となり得るが、宗門系学校が正式に同省所管となっていくのは明治32年8月以降のこと。それ以前は、教部省(後に内務省)の所管であった。

このことが意味するのは、当時の行政上では宗門系学校は仏教教団の一部に位置づけられ、学校とはみなされていなかったことである。これまで宗門系学校の近代史といえば、学校制度上の教育機関として記述されることがほとんどであった。しかし、それでは宗教制度上における宗門系学校という側面を見失ってしまう。

そこで本稿では、明治政府が構築した学校制度と宗教制度の視点から宗門系学校誕生を論じていきたいと考えている。以下では、誕生までのプロセスを分かりやすく説明するために、

Ⓐ明治初期~:大教院制度・教導職制度上での僧侶養成機関
Ⓑ明治10年前後~:宗門系の各種学校=僧侶養成機関
Ⓒ明治32年~:宗門系学校
という三つの区分を用意した。この区分は、行政所管上からみた宗門系学校の歴史区分であるが、これに準じて論じることとする。

二 ルーツとしての大教院・教導職制度

まずⒶについて触れていこう。Ⓐとは、教部省(後に内務省)の所管領域において存在していた僧侶養成機関のことを意味する。大教院制度(明治6年)および教導職制度(同5年)は教部省時代に創設された宗教制度であり、前者は宗教制度のハード面(宗教教団体制)を、後者はソフト面(人材の育成・管理)を担う制度であった。

中央に大教院、地方に中教院・小教院を創設せしめ、神官僧侶らを教導職に任じ国民教化を担わせたのである。重要なのは各教院が国民教化事業とともに対教導職教育および養成の役割も果たしていた点である。

教導職制度が発足した同年、教部省は「教導職試補」という階位以上でなければ住職たり得ず、と布告している。この布告によって仏教教団はその階位を授与するために対僧侶教育を実施せざるを得なくなった。

明治8年に大教院制度は崩壊するが、教導職制度は明治17年まで存続している。その間、仏教界では教団体制の再編とともに、近世期とは異なった僧侶養成機関を設置していったのであった。例えば、大正期に宗門系大学を設置する8宗派では、明治10年代後半までに、東京または本山所在地において対僧侶教育の中核となる上級の養成機関を、地方において支校や支所といった養成機関を設置している。

後々にこれらが統廃合を経て宗門系大学、宗門系学校へと発展していく。近世期の学林や檀林は教団自治に根ざした養成機関と言えるが、明治期のそれは大きく異なっていた。国家の急進的な宗教政策を背景に新設された養成機関だったのである。宗門系学校の近代史とは、当時の宗教制度の枠組み、つまりⒶの中でスタートしたのだった。

三 狭間に位置する僧侶養成機関=宗門系の各種学校

次に、Ⓑに触れていこう。Ⓑとは、内務省と文部省の間で揺れ動く組織、内務省にとっては僧侶養成機関、文部省にとっては各種学校(=教育行政上では非正規の学校)を意味する。

明治10年代後半までに各教団で構想された全国規模での僧侶養成構想は、明治20年代半ばになると縮小されていった。各教団ともに最上位の中核校といくつかの支校・支所を残した上で、それらの充実を図るようになったのである。

例えば、明治27年・真宗大谷派では大学寮1校・中学寮5校にという現実的な校数に落ち着いている。浄土宗においては当時の学校制度に倣った教校制度を明治31年に発足させている。なお、先述したように教導職制度は明治17年に廃止されたため、Ⓐにおいて創設された僧侶養成機関は公的制度の後ろ盾を失ってしまった。

ただし、内的かつ外的な要因を背景に僧侶養成機関は、公的認可を求めて徐々に学校制度に接近していく。内的要因とは、仏教者側の「普通学」への関心増である。

教団ごとにスピードの違いはあるものの、宗門系学校では「普通学」が導入されていった。「普通学」とは世間一般の学校で教授されていた科目を指し、今でいうと国語や数学、地理といった科目群に値する。ただし、「普通学」導入は伝統教学や宗学の科目削減を必然としたため、保守層からの批判が根強かった。

しかし、明治28年の内務省訓令第九号によって「普通学」導入の流れは決定づけられる。神官僧侶たる者は尋常中学校以上の学識を具備するよう指示されたのであった。この訓令は外的要因として機能し、各宗門系学校ではカリキュラム改革が実施されていくこととなる。

無論、この段階でも宗門系学校を所管するのは正式には内務省であり、学校制度上では各種学校扱いであった。しかし、文部省が定めるカリキュラムを徐々に取り入れ、かつ施設や運営体制も充実させてゆき、宗門系学校はいわゆる学校としての体裁を徐々に整えていった。

一方、徴兵令との関わりも外的要因の一つとして見逃してはならない。明治22年に徴兵令が改正され、中学校程度以上の私立学校に在学する学生にも徴兵猶予の特典が認められた。それ以前は官立学校のみに特典が認められていたことから、私立学校は常に学生流出に伴う経営難に苦慮していた。

待望していた改正を機に、私立学校は徴兵猶予認定を得るべく、自校のカリキュラムや組織体制を官立のそれに寄せてゆき続々と認定申請を行った。無論、宗門系学校でも他の私立学校と同様の動きをみせることとなった。

四 宗門系学校の誕生

そして、いよいよⒸへの移行である。Ⓒとは文部省が所管する領域であり、宗門系学校はこの時期以降に文部省によって正式に学校として認可されていく。その際の法的根拠となったのが、明治32年8月に勅令公布された私立学校令である。

当時の教育行政においては、確かに私立学校という教育機関は不可欠と目されていた。しかし一方で、増加し続ける私立学校の管理方法が課題となっていた。そこで私立学校全体を包括的に所管していくための法令が明治20年代半ばより模索され、その結果、私立学校令が公布される。

なお、同令とともに発せられたのが、全ての学校において宗教教育を禁止した文部省訓令第十二号である。この訓令は、本来的にはキリスト教系学校対策を企図したものであったが、それのみを狙い撃ちすることは外交上不可能であったため、全学校を対象に宗教教育を禁止したのであった。

無論、これは文部省認可の学校において宗教教育を禁止したのであって、認可不要の学校においては宗教教育を実施してもよかった。ただし、その場合は私立学校令に認可されず各種学校扱いを受けることとなる。その学校を卒業しても学歴は得られず、また、高度な教育を教授していたとしても徴兵猶予特典も得られない。

そこで実際には、多くの私立学校が同令認可および徴兵猶予特典の獲得を目的に、同令に定められた内容に基づき組織を整備し、カリキュラムを改変していった。宗門系学校も同様であった。

私立学校令認可を受けた宗門系学校が全体としてどの程度存在したのか、現段階では分かっていない。ただし、中学校程度以上の宗門系学校であれば、明治年間において延べ41校の学校が私立学校認可を受け徴兵猶予特典を得たことが判明している(この数は統廃合や再認可等の重複を含む)。

大正期になると、それらの中から宗門系大学への昇格を遂げていく学校が出てくることとなるのであるが、残念ながらそれは字数の制限があり論じることはできない。私立学校→専門学校→大学という階梯を宗門系学校は如何にして昇っていったのか。もし機会があれば、それの実態についても論じてみたい。