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東奥念仏始祖金光上人没後の説話形成

浄土宗来迎寺副住職 遠藤聡明氏

2017年9月1日付 中外日報(論)

えんどう・そうみょう氏=1959年生まれ。大正大大学院宗教学修士修了。青森県黒石市・来迎寺副住職。共編著『金光上人関係伝承資料集』。論文は『仏教論叢』に発表を20年継続中。

昨年800回忌を迎えた金光(1154~1217)は、浄土宗祖法然の門弟の一人で、東北に専修念仏を伝えた人とされるが、九州を拠点に活動した浄土宗第2祖聖光に比べ、知名度は低い。信頼に足る資料や点在する遺物が線や面につながりにくく、実像に迫り難いものを覚える。

だが、ここではいくつかの文献をたどることで、その足取りをたどり、時代が下るにつれて、金光に関する説話が次第に形成されていったことを見ていきたい。

1.鎌倉時代の文献

金光に言及する最古の文献は、法然の孫弟子良忠の『決答授手印疑問鈔』とその弟子性真の『授手印決答見聞』(ともに1257年)である。筑後石垣観音寺の別当であった金光が所領の係争で交渉に赴いた鎌倉で、法然の門人安楽房の説法を聞き、法然の門弟となったという発心の因縁が伝えられる。前者では、「法然上人お隠れ後の法門の疑義は誰に尋ねましょう」との問いに、「聖光房と金光房が望ましいが、彼らは遠国にいるので」と法然が語ったとしており、教義の理解に対する評価が知られる。ただし、これらは教義書の注釈書であり、金光については付随的な話題に過ぎず、しかも年代の記述は見られない。

金光の東北下向の年代に言及する最古の文献は、法然の伝記『法然上人行状画図』(1307年以降)の末尾になるが、法然入滅よりほぼ100年後の成立で、確度の低下があろう。嘉禄3(1227)年陸奥の国に下向とするが、同年は天台宗の僧徒の圧迫による有力な法然門下の諸国配流の年である。前段のように法然生前の奥州下向とみる方が、いくぶん信頼がおけそうではある。

このほか、上述性真の弟子良心の『授手印決答受決鈔』(1293年)には、奥州会津で殊勝の往生という、入滅の地を特定した記述もある。だが、金光在世の鎌倉時代の成立が確実な文献は確認の限り上記がすべてで、考察の出発点としては心許ない。

2.室町時代以降の文献

浄土宗第7祖聖冏の『決答疑問銘心鈔』(1392年)も注釈書で、その所伝は鎌倉時代の踏襲。他に伝灯の系譜が若干ある。融俊一仲『浄土惣系図』(1506年)などは弟子明達、その弟子勇道の存在と、金光が奥州津軽(青森県西半域)に遣わされたとの記事がある。ただしそれらは浄土宗の中でも西山派の人師による系譜で、鎮西派の文献にはそうした記述は見られない。

3.江戸時代前半期の文献

約270年に及ぶ江戸時代を単純に2分割するなら、享保末(1737)年で区切りうるであろう。この時期に増大する宗内資料の嚆矢として、伝灯の系譜の袋中『浄土血脈論』(1623年)に、奥州津軽往生という、従前と趣が異なる記述がある。禅林寺貞準の『浄土宗派承継譜』(1684年)も同説を挙げる。以降西山系の文献が影をひそめ、金光の遺蹟だという地方寺院の文献が登場するが、時にその整合性を見いだしづらい。

その中で津軽藤崎(青森県南津軽郡)の摂取院に住した心誉蓮池による記録は示唆に富む。蓮池は遺蹟たる同寺寺歴の整備に始まり、金光の顕彰を行ったほか、藩の公式記録『弘前藩庁日記』によると、他寺院の復興、さらには江戸に上り、祐天の助力を得て念仏弘通に生涯を捧げたことが分かる。

袋中の曾孫弟子にあたる義山と円智の『円光大師行状画図翼賛』(1703年)、鸞宿『浄土伝灯総系譜』(1727年)などが、奥州栗原(宮城県北西域)の往生院での金光の入滅を伝えている。

以上の所伝の疑義を正さんとした義山の実地踏査による成果が『御伝翼賛遺事』(1729年)である。加美の往生寺(宮城県北東域、この時期から曹洞宗)の縁起と、先に述べた蓮池の活動を検討した結果、金光入滅の地は津軽浪岡(青森市浪岡)であると結論付け、関連の諸事情をも記している。

引用された往生寺の縁起には、「真似牛伝説」と呼ばれるものもある。牛身に変じた僧に助けられた農夫が富裕になった話を羨んだ別の農夫が、金光をもてなしたところ、農夫自身が牛となってしまい、金光がこれを済度したという。また、義山最要の主張ではないが、金光の入滅年月日については、石碑の摩滅を理由に不明であると明快に断定している。

4.金光上人招来の法然上人座像

宮城県加美郡色麻町の往生寺の本尊法然上人座像は、自身の身代わりとして金光に遣わしたと伝えられる年2回開帳の秘仏である。文献的には前述『御伝翼賛遺事』が初の言及とみられる。

種々の文献が、もとは栗原郡にあった往生寺が旧領主大崎氏の夢告により加美郡に移されたとするが、信頼性が高いのではなく単に引用したものが多いという印象を受ける。この往生寺は1596年以降に曹洞宗の僧が住し、1661年には正式に曹洞宗寺院になったとする地元の地誌『風土記御用書出』(1776年)も、『御伝翼賛遺事』の往生寺縁起をほぼ踏襲した記述である。

5.江戸時代後半期の文献

この時期には各地方の文献が増加した。それだけ金光の知名度が高まってきたともいえようが、相容れない内容の記述も見られる。

金光の拠点であった筑後石垣観音寺(福岡県久留米市)に伝わる『石垣山三種之霊宝由来』(1771年)では、これまで然廓とされてきた人物が金光だとする。『住持相承歴代略伝記』(1781年)では、その金光房然廓は栗原の往生院で1231年に入滅したとしている。

1800年前後には色麻の往生寺の法然上人座像にまつわる、複数の縁起が刊行された。中で『法然上人御影畧縁起』は金光の入滅を1212年9月とし、地元の地誌『嚢塵埃捨録』では1211年8月とするが、入滅後についての言及はない。

以上の諸記録とは異質な印象を受けるのが『金光禅師行状史』(1809年出現)である。これは超能力者的な金光の姿や1217年3月の津軽浪岡での往生を、「伝えた」のではなく「主張した」ものである。ともあれ急遽、金光600回忌がその4年後であるとされた。遺蹟寺院とされる西光寺(青森県弘前市)の良皷意全が当該年に上洛、金光拾得と伝わる如来像を知恩院泰誉在心大僧正にお目にかけ、帰途の江戸では出開帳の形で、諸方より多くの財物を受けた動きも特記しておきたい。

同文献については出現の形態に吟味すべきものがある。これがもともと1282年、その抱き合わせ的な文献が1231年の記録で、近村の古記録から最近見いだされて、1809年に書写したのだとしている。そうした記録が出現した場合、内容精査を要する。

発見者という良導壽源はその少し前、ある機縁から金光の歎徳文を複数作成した。その文面は随所が『金光禅師行状史』と同一、または酷似する。壽源は当時の学僧澂誉信冏に持ち込んだのであろう。やや生硬な文章表現を浄土宗義に合うように修正し、開板する力量の持ち主は信冏の他にはあるまい(刊行は信冏没後の1821年)。

これは何を意味するのか。痛烈な批判を浴びせたのが出羽最上三宝寺(山形県天童市)良知弁識の『金光上人事蹟』(1824年)である。自ら調べた金光の伝や宗史をもとに、『金光禅師行状史』の所説を論破している。弁識による金光の伝にも傍証が難しいものや、他人の行跡との混同が一部あるが、史観として高く評価できる。

6.おわりに

金光に言及する主要な文献を略説した。他にも独自の記録は数あるが、傍証できない記事や、類似したものは割愛した。法然座像の他にも関連遺物がある。それらをめぐる所伝も、ここでは省略せざるを得なかった。

初期には会津とされていた入滅の地が、宮城、青森と北上している。これが史実の歪曲か、新事実か、慎重に検討して判断したい。