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希代の念仏行者「徳本」に学ぶ

浄土宗一行院住職 八木千暁氏

2017年9月6日付 中外日報(論)

やぎ・せんぎょう氏=1962年生まれ。大正大浄土学部浄土学科卒業。同大「浄土宗法儀研究」非常勤講師として後進を指導。雅楽演奏団体「伶楽舎」に所属し、音楽監督・芝祐靖氏のもと、龍笛奏者として国内外で活躍している。

江戸時代後期、紀州の山中で荒行をし、諸国を行脚して念仏教化し、阿弥陀如来の化身とまで言われた徳本=名蓮社号誉称阿弥陀仏徳本〈宝暦8(1758)年~文政元(1818)年〉=がどのような僧であったのか、そのいくつかのエピソードから知っていただければ幸いである。

徳本は弥陀の化身

北海道にある有珠善光寺の第3世弁瑞和尚=生年不明~文政8(1825)年=は、徒弟を教誡するたびに、徳本は即ち弥陀の化身であり、念仏修行者の目指すべき理想の姿であると説示した。ある時、弟子からの「徳本をなぜ弥陀の化身とするか」との問いに、弁瑞は宋代の居士王日休の撰した『龍舒浄土文』の説を引いて「大慈菩薩勧みて西方を修せしむ。偈に云く、能く二人を勧めて修せしむるは自己の精進に比す。すすめて十余人に至れば、福徳すでに無量なり。百と千とに勧むるが如くは、名づけて真の菩薩と為す。又よく万数に過ぐれば即ち是れ阿弥陀なり」と徳本の念仏教化は万数に過ぎるものであるから、弥陀の化身であると答えている。

唯一向に念仏すべし

後に徳本の弟子となった鸞洲が、紀州で修行している徳本をはるばる尋ねた時のこと。鸞洲は徳本に「本願念仏の大利益は、後の世も得ることができるや否や」。これに答えて「念仏の行は他力外ならず。至心に修行すれば、かならず三昧の境地に至る」「かつ、学問を積むことは仏祖の勧賛する処なれども、自行真実ならば学をなすも何の益かあらん。今の人、護法を名として心は名利に馳す。唯自行を励むべし、化他は期すべきにあらず」「汝、いまあい難き法にあう。宝の山に入りて、手を空しゅうして帰ることなかれ」と懇切に教示し、鸞洲は徳本が学ばずして、おのずから仏祖の説に符号していることに驚き、和歌山有田での修行を共にし、徳本の右腕となり生涯を共にすることとなる。

貴僧は念仏がたらぬ

徳本が下総小金の東漸寺に立ち寄られた時のこと。檀林寺院の貫首宣契大和尚は徳本の来着を喜び謁見する。大和尚は、「上人は衆人に日課念仏つとめよと勧め給えり。上人にもみづから日課の数は定めさせ給うにや」と、徳本は「念々不捨に念仏して昼夜しばらくも間断なければ日課を定めることなし」と。大和尚重ねて「念々不捨とは申せども一食の間もなお間断あり、況んや上人は平生念仏の御いとま、説法に力を用ひ給うことなれば、無間修の名は如何にや」と問うと、徳本は忽ち居住まいをあらため「昔聖徳太子は八人の奏問を一斉にきかせ給いしときく。吾は四才の時より無間修の行者なり。たとへ聖徳太子には及ばずとも念仏説法の両途を一時に勤むるに何の難きことかあらん。大和尚には未だ念仏の数の足らぬより、かかる疑ひの生じ給えるなり」と答えた。大和尚はその時、徳本が実地の修行者であることに感服した。

将軍家から町人まで念仏教化

時の増上寺大僧正・教誉典海大和尚は、僧侶の懈怠、念仏の衰退を憂え、徳本を江戸に請待すべく紀州に使いを出す。大和尚は江戸に出向いた徳本に会い、「願わくは永くこの地に錫を留めて群生を利益し給えかし」とその労を励まし、徳川御三家御三卿はもとより、大名家、とりわけ大奥の女官などに結縁を促した。徳本が留錫した小石川傳通院での法座には多くの人々が群参した。戸松啓真編『徳本行者全集』に載る文化12(1815)年5月の様子には「傳通院では毎月の五日、十五日、二十五日に御説法あり、山内大仏殿へ群集参拝する。広い本堂なれども隙間なく詰めるゆへ、中々近き所へ居ること難し。表御門外に諸人夜明け前、夜中から詰めかけいる人おびただしく海の波が打ち寄せるように騒がしき也。明け六つから表御門開き諸人ども入る也。お座敷は諸屋敷方女中等多く候。尼僧等おびただしく参拝。さて大仏殿正面に高座を据え、皆々鉦打ち鳴らし念仏申しいたし候。行者御出でにて御随身の僧十人付添い、鸞洲和尚御付添い高座へ御直り、行者から諸人へ御十念あり。諸人一同同音に高声にてお念仏相勤め、終わりて御説法、御十念奥へ入られる。後は前座詣でた者と後座へ入り来る者と入替わる也。それ混雑たとえ難し。それから又昼座同じく相済み。又夕方一座共。日に三度ずつ同様の事也」とある。

請待を受け出向いた先々の寺院でも、群衆する人々に十念を授け、日課念仏を誓わせたのである。この時の徳本関東下向は、文化11(1814)年、徳本57歳の時のことであり、亡くなるまでの4年間、江戸を拠点に精力的に諸国を回り、念仏教化に大いにその力を発揮した。

江戸一行院にて念仏往生す

徳本に帰依する篤信者は数多いが、特に徳川11代将軍家斉公の実父、一橋治済卿が徳本に帰依したことは大きな力となった。この頃、増上寺を始め多くの人々の懇願により、諸国巡錫の徳本の江戸滞留の声が高まった。一橋治済卿の力添えもあり、江戸滞在の寺として小石川一行院が急ぎ再建されることとなった。

文化14(1817)年の夏に建築が始まり、その暮れに徳本が入寺されるも、翌文政元年10月6日忽然としてその61歳の生涯を閉じたのである。

 南無阿弥陀仏 生死輪廻の
 根をたたば 身をも命も
 をしむべきかは
             (徳本辞世の句)

葬儀は10月9日に一行院で行われた。増上寺典海大和尚は親しく葬儀に臨んで、群参する人々をかき分け一行院に到着し、導師を勤めた。大和尚は下炬の御辞に大悲菩薩の法語を挙げて「即是阿弥陀仏」と誦した。参列者一同感涙にむせび、徳本の往生を嘆いたのである。

おわりに

徳本没後、200年の時を経た現在、少子高齢化、檀家制度の崩壊、葬儀など諸儀礼の簡略化が懸念される時代となった。しかし、世間は仏教を見限ってしまったわけではない。菩提寺や僧侶に対して疑問符を持っているのである。江戸後期、身をもって僧侶のありようを示し、教化にまい進された徳本の二百回忌を迎え、報恩感謝の想いだけでなく、徳本の生涯を範として、今こそ僧侶がどうあるべきかを模索しつつ時を過ごしていきたい。