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朝鮮半島出身の宗教民族学者・金孝敬 ― 近代日本の宗教≪14≫

文化庁文化部宗務課専門職 大澤広嗣氏

2017年9月8日付 中外日報(論)

おおさわ・こうじ氏=1976年生まれ。大正大大学院宗教学専攻博士後期課程修了。現在は文化庁文化部宗務課専門職、東洋大文学部非常勤講師、武蔵野大仏教文化研究所非常勤研究員、龍谷大アジア仏教文化研究センター客員研究員。著書に『戦時下の日本仏教と南方地域』(法藏館、2015年)がある。
はじめに

中外日報が創刊したのは1897(明治30)年である。帝国日本が台湾を領有した直後であった。その後、樺太、関東州、朝鮮半島、南洋群島、満洲などを植民地とした。敗戦までの中外日報を見ると、これら各地での日本宗教の布教を報じた記事が多く見られる。

植民地では、現地の人々に初等教育から日本語を教えた。やがて、日本本土で高等教育を受け、日本語で学会発表を行い学術論文を書く、植民地出身の学者が現れた。宗教学界と民族学界で活躍したのが、朝鮮半島出身の金孝敬(キム・ヒョギョン)である。

金孝敬は、中外日報と関わりが深かった。後述するように、多数の論説を寄せていたのである。

金孝敬の略歴

金孝敬は、1904年に朝鮮半島北部の平安北道義州に生まれた。その直後に大韓帝国は、日本の保護国となり、10年に併合される。

金は、新義州高等普通学校を経て、財団法人朝鮮仏教団の第2回布教留学生に選抜され、26年に大正大学専門部仏教科へ入学した。受け入れ側の保証人は、東京芝にある浄土宗大本山増上寺の執事長の窪川旭丈であった。

布教留学生は、朝鮮出身者を日本本土の寺院や学校に派遣して、布教に従事する人材育成の制度であった。しかし、金は学問を志望して、さらに大正大学文学部宗教学科へ進学した。同学科で、矢吹慶輝、大島泰信、真野正順から指導を受けた。非常勤の講師であった東京帝国大学の宇野圓空からは、宗教民族学の影響を受けた。

卒業論文は、「巫堂(ムーダン)考」と題して、朝鮮半島のシャーマニズムを論じたものである。その後に金孝敬は、大正大学宗教学研究室の副手を務めた。

法然上人鑽仰会が、35(昭和10)年に増上寺を事務局に発足すると、副手の任期が終了したこともあり、教授らの紹介で同会の事務局に勤務した。この頃、日本仏教の書籍を朝鮮語に翻訳して紹介に努めた。矢吹慶輝の『法然上人』(岩波書店、32年)を訳して、矢吹慶輝著・金孝敬訳『覚聖法然』(覚聖法然刊行会、34年)が刊行された。

大正大学以外でも活動の場所を広げた。立正大学の満鮮講座で講義を行い、國學院大學の海外神社奉仕者講習会では「大陸の宗教問題」を講じた。学界で活躍は目覚ましく、30年代以降の日本宗教学会や日本民族学会(現・日本文化人類学会)の刊行物を見ると、金の論文が複数見えるのである。

日本の敗戦後、朝鮮半島南部に米軍軍政が行われ、48年に大韓民国が独立する。金は、ソウルの東国大学校教授や国立民族博物館館長を務め、ソウル大学校でも教えた。しかし、50年に朝鮮戦争が勃発すると、金は北朝鮮に拉致された。その後の行方は、今も分からない。

中外日報の連載記事

金孝敬は、健筆を振るった。学風を見るため、本紙に寄せた論説の連載記事を示そう。

34(昭和9)年=「仏教史上に於ける朝鮮と日本との交渉」(5回、5月5~10日)

35(昭和10)年=「朝鮮文化史上に於ける仏教の地位」(5回、1月16~20日)

36(昭和11)年=「風水信仰の日本に及ぼせる影響」(5回、9月13~18日)

37(昭和12)年=「半島民族の王座 天道教」(6回、3月19~25日)、「天主教朝鮮伝道悲史」(4回、4月13~16日)、「支那とモハメット教」(3回、11月12~14日)

38(昭和13)年=「日本は支那の道教を如何に消化したか」(5回、1月20~25日)、「神仙憧憬に現れたる支那国民性」(7回、5月7~14日)、「支那革命不絶の思想根拠」(7回、7月14~21日)、「新興満支に仏教各宗は何を為す可きか」(3回、12月9~11日)

39(昭和14)年=「大陸文化建設の基本問題 支那人の風習とその原因」(6回、11月11~17日)

40(昭和15)年=「支那国民の心的性格の真相」(5回、11月28日~12月3日)

42(昭和17)年=「南洋華僑の性格」(10回、11月26日~12月6日)

論説の傾向を見ると、当初は朝鮮の仏教や民俗宗教の研究を行っていたが、日中戦争が激化すると、中国大陸や東南アジア華僑の民族問題に関心を広げる。金の学問は、時局と無関係ではいられなかったのである。

中外日報に掲載された一部の論説は、金孝敬『支那精神と其の民族性』(宇野圓空序、三友社、40年)に再掲されている。

全京秀による研究

筆者は、大正大学の在学中から、先輩である金孝敬に関心を持っていた。ソウル大学校人類学科・教授(現・名誉教授)の全京秀(チョン・ギョンス)先生の著作『韓国人類学の百年』(岡田浩樹・陳大哲訳、風響社、2004年。原本1999年)で、金が論じられていたのを興味深く読んだからである。

院生の頃、日本で行われた研究会にて、全先生と知遇を得た。以来、来日の機会が限られている全先生に助力すべく、筆者は資料収集を手伝った。

なかでも、現在は真言宗豊山派の宗務総長である星野英紀先生より、大正大学学長の在任時に、多大なる御理解を頂いた。大正大学に残されていた金に関する資料が、星野先生の尽力により、全先生に提供されたのである。奇しくも、かつて真言宗豊山派の管長であった富田斅純(こうじゅん)が記した宗祖空海に関する書籍を、金は朝鮮語に翻訳していたのである(富田斅純著・金孝敬訳『大聖弘法』大聖弘法刊行会、34年)。

先年に全先生は、「宗教民族学者金孝敬の学問訓練と帝国背景」(『民俗学研究』第36号、ソウル・国立民俗博物館、2015年)として成果を公表した。邦訳は、植民地期における日本語朝鮮説話集研究で知られる金廣植(キム・クァンシク)先生の翻訳により、報告書『国際化時代を視野に入れた文化と教育に関する総合的研究』(東京学芸大学、15年)に収録された。研究の蓄積は、著作集の公刊につながった。

韓国での再評価

17年6月に、全京秀編『金孝敬著作集』(全3巻、ソウル・民俗苑)が発行された。第1巻著書篇、第2巻訳書篇、第3巻論稿篇に分かれ、全1120ページとなる。植民地時代の学術成果であるため、多くが日本語で書かれている。

刊行に合わせて、同年6月27日に韓国の近代書誌学会の主催により、ソウル仁寺洞の寛勲クラブ信永研究基金会館で、「金孝敬著作集出版記念学術大会」が開かれた。

プログラム(敬称略)は、①発表が、金光植(キム・クァンシク、東国大学校)「金孝敬の仏教に対するいくつかの問題」、梁鍾承(ヤン・ジョンスン、シャーマニズム博物館)「金孝敬のシャーマニズム論」、全京秀(ソウル大学校)「写真でみる金孝敬先生」②コメントが、金鐘瑞(キム・ジョンソ、ソウル大学校)、崔錫榮(チェ・ソクヨン、国立劇場公演芸術博物館長)、黄仁奎(ファン・インギュ、東国大学校)が議論を行い、千鎭基(チョン・ジンギ、国立民俗博物館)の書面参加があった。最後に、③遺族代表挨拶があり、来場者は八十余人であった。韓国での金孝敬への関心の高さがうかがい知れた。

筆者は、①発表にて、「金孝敬と大正大学宗教学研究室」と題し、金をめぐる当時の大学状況と学問制度を韓国語で報告した。発表原稿の翻訳は宗教情報リサーチセンターの李和珍(イ・ファジン)、当日の質疑通訳はソウル大学校大学院の新里喜宣の各先生に協力を仰いだ。

金孝敬の学術遺産を、どのように継承していくべきか。日本が進攻した中国を語る、植民地朝鮮出身の学者。これだけで、日本に協力した「親日派」と評価することは、当時の時代状況を無視した評価となり、適切ではない。

金孝敬は、祖国朝鮮が植民地下という限定された状況で、日本側が制定した留学制度を最大限に利用する。布教者ではなく学者となり、日本の学界で精力的に数々の論文を発表した。その成果は、現在でも参照すべき研究であろう。