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大乗仏教における「空性」と「智慧の究極性」という条件

臨済宗大徳寺派福聚院住職・私塾明知林塾頭 佐藤宏宗氏

2017年9月29日付 中外日報(論)

さとう・こうじゅう氏=1964年、大津市生まれ。大谷大大学院文学研究科満期退学、インド・マハラシュトラ州立プネー大大学院サンスクリット語高等研究所博士課程修了。プネー大Ph.D.、大谷大博士(文学)。公益財団法人中村元東方研究所専任研究員、東方学院専任講師などを歴任。専門はインド哲学(認識論、論理学、後期ジャイナ教認識論、仏教学)、サンスクリット語。共著『仏教の事典』(朝倉書店)など多数。

我が愛弟子よ、移ろう事象の中にあって汝が生涯で為すべきことは「タットゥヴァ」を知ること、そして、その智そのものとして絶え間なく歩むこと、ただそれのみだ。

これが、仏教を含むインド諸学派の「ダルシャナ」を師資相承として指導下さった我が師、ズハァー先生が私に授けられたインド思想の根本である。この「タットゥヴァ」が、「自性」、即ち、「あるものあって、そのあるものをありありとそのものたらしめる根拠」であり、所謂、「普遍」、即ち、「属性」のことである。通常、「真実」「実性」云々と表現されるが、正確には「あるもの」、即ち、「この現象世界そのもの」を「それ」(タド)たらしめる「それ性」(タットゥヴァ)のことである。この「それ性」と同種の概念が「スヴァバァーヴァ」、即ち、「自性」である。

例えば、我々が普段認識している「牛」と称される存在を「牛たらしめている根拠」が、「牛性」という「自性」である。実在論者は、この「それ性」が、この現象世界に唯一普遍なものとして実在すると考え、他方、観念論者はこれを単に概念構想のもの(言語世界の広がり)として捉える。この「それ性」、即ち、「自性」は古来インド文法学では「言葉の発働根拠」(プラヴリッティニミッタ)として、また、インド大乗仏教では「プラパンチャ」(戯論:言葉の広がり)、即ち、「カルパナー」(分別:概念構想)として理解される。いずれの立場であれ、この「それ性」をめぐりつつ、外界世界に、あるいは内界世界に実在するか否か分かり得ない行為主体である「アハン」、即ち、「わたくし」というものを含むこの「現象世界」をつくりあげてしまう認識の枠組み(絡繰り)をひも解くということが「ダルシャナ」、即ち、「この現象世界を我々の経験知と相矛盾することなく観てとるはたらき」ということなのである。

「空性」という条件

中観派の学匠、龍樹(2~3世紀頃)の『中論』は般若思想の中心を、「空性」(シューニャター)という概念手段を条件として、「菩薩行」(ボーディチャルヤー)というインド思想の根幹をなす「カルマヨーガ」に置いている。しかし、この「空性」とそれに匹敵する概念とが種々の般若経典類や論書の中で厳密に用いられ、インド大乗仏教における「カルマヨーガ」である「菩薩行」が伝承されているにもかかわらず、一般にこの基本思想が理解されているとは言い難い。

我々は、龍樹が掲げる「空性」という概念を確認し、「般若波羅蜜多」、即ち、「智慧の究極性」という術語概念とともに般若思想の基調となる「カルマヨーガ」である「菩薩行」そのものとして平常に歩むために、インド大乗仏教のみならず、インド思想の基本的立場を正確に踏襲するスタンスを持たねばならない。龍樹は『中論』第24章第18偈で次のように言う。

およそ縁って生ずるもの、それを我々は空性と呼ぶ。それは〔対象を言葉の世界に〕引き寄せて知らしめるものであり、中道である。

ここで彼は明確にすべての現象世界は「縁って生ずること(もの)」(プラティートゥヤサンウトゥパーダ)であるとし、そのことを「空性」と称し、それはあくまでもこの現象世界は「言語世界という場」でのみ可能な認識対象であることを我々に「知識せしめる」ための言語表現としての「条件」としている。即ち、「空性」とは、認識対象が、外界世界や内界世界に実在するか否かということは絶対的に決定不可能であるが、その対象となるものをいったん「言葉の世界に引き込んで、知らしめるもの」に他ならず、これは人間が言葉の世界を逸脱した存在ではあり得ないという自覚を促すためのある種の「方便」=「手段」なのである。

簡潔に言えば、「空性」とは、我々が認識するこの現象世界は「実在としての言葉の発働根拠を有さない」、つまり「ニフスヴァバァーヴァ」(無自性)という条件のもとでの世界認識にすぎないという絡繰りをひも解く「手段」の言語表現である。中観派の思考の基軸となる「空性」は、実在論者が掲げる「非存在」なるものを「非存在たらしめる根拠」としてこの宇宙に恒久的に実在する「非存在性」(ナースティトゥヴァ)のような「自性」とは全く異なる概念なのである。

中観派が現象世界を把握する認識方法を自派理論として表述する場合には、必ず「空性という条件では」(シューニャターヤーム)という「処格」表現をとるのに対して、実在論者たちの世界展開理論を表述する場合には、例外なく、「自性の実在に基づいて」(スヴァバァーヴェーナ)という「具格」表現、あるいは「自性の実在が根拠となり」(スヴァバァーヴァタス)という「奪格」派生の不変化辞表現を用いる。中観派は、実在論者たちが認める普遍としての「言葉の発働根拠」なる「自性」の実在に基づく現象世界認識を承認せず、あくまでも「空性という条件のもとで」、即ち、「言葉の世界に引き込んで」のみ現象世界認識が可能だとし、「空性」という概念はこの宇宙を貫く絶対真理とは何ら無関係なものだという立場をとる。当然、中観派が承認する「縁起」は言葉の世界という枠組みでの世界認識の「条件」であり、部派仏教等が掲げる実在論的な因果関係としてのそれとは異なる。何故ならば、実在論の土俵では絶対に「結果性」や「原因性」という「自性」の実在に基づく世界認識理論を避けられないからである。

「智慧の究極性」という条件

この条件としての「空性」と同じ概念表現として理解可能なのが、『般若心経』等に見られる「智慧の究極性という条件では」(プラギャーパーラミターヤーム)という「処格」表現である。我々の存在を含むこの現象世界を如実に把握するためには、「智慧の究極性という実在に基づいて」(プラギャーパーラミタヤー、あるいは、プラギャーパーラミトゥヴェーナ)というように「言葉の発働根拠」なる「自性」、即ち、普遍的実在として理解される「智慧の究極性」の「具格」表現を用いる世界認識論理を構築せず、「智慧の究極性において」=「智慧の究極性という条件付けで」という概念がその理論構築の基礎となることは明白である。

この「智慧の究極性」とは、周知の通り「三昧」(サマーディ)であり、インド思想では「ヨーガ」と等値される。この「三昧」は、『中論』の註釈にも引用されるように、「無相」(アニミッタ)なるもの、即ち、「実在としての言葉の発働根拠を有さない」、つまり「無自性」ということである。龍樹にとっては、これは「縁起」であり「空性」に他ならない。これらを踏まえて『般若心経』では、この現象世界を如実にすでに観察した者、即ち、自在なる者という菩薩が、深い「智慧の究極性」という条件のもとに、現象世界そのものである「五蘊」(色、受、想、行、識)は、それぞれの自性(色性、受性、想性、行性、識性)が根拠となり実在するのではなく、自性を欠くものという条件付けで承認可能なものにすぎないと自覚することが描写される。

「色即是空、空即是色」とは、「色は、空性、即ち、普遍なる色性の実在が根拠となり、認識されるものではなく縁って生ずるものであり、空性、即ち、縁って生ずるものという条件付けでのみ承認可能なものが、色なのである」ということに他ならない。「智慧の究極性」とは、人間は言葉の世界を逸脱したものではないという自覚を促す「手段」であることを意味する。

ヨーガ思想では、これは人間が自らのリミットを自覚する「三昧」、即ち、「ヨーガ」という「手段」として理解される。これら「手段」は、あくまでも「条件」であり、決して、崇高なる絶対的真理として妄想される「悟り」という神秘的対象ではあり得ず、我々の存在を含むこの現象世界を如実に把握する智慧そのものなのである。