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日露戦争におけるキリスト教徒の葛藤 ― 近代日本の宗教≪16≫

桃山学院大准教授 石川明人氏

2017年10月6日付 中外日報(論)

いしかわ・あきと氏=1974年、東京都生まれ。北海道大大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(文学)。専門は宗教学、戦争論。著書に『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版)、『キリスト教と戦争』(中公新書)、『私たち、戦争人間について』(創元社)など。

1904年に始まった日露戦争は、第1次大戦や第2次大戦など、後のいわゆる「総力戦」の様相を先取りした戦争の一つであった。機関銃や榴弾砲などが多く投入され、電話も用いられた。日本がロシアに勝利した半年後には、今後の戦争では飛行機が「役に立つ」と考えたライト兄弟が、日本の陸軍大臣宛てにもセールスの手紙を送りつけてきている。

そうした日露戦争の時代、日本国内で特に深刻な状況に置かれていた宗教は、ロシア正教会である。衝突の相手がロシアであるがゆえに、ロシア正教関係者は「露探」(ロシアのスパイ)の嫌疑をかけられ、人々から猜疑の目で見られ、暴力的な迫害も受けた。

「文明対非文明」

信者の子どもたちは学校でいじめられ、神父や教役者たちは教会を追い出されて行方不明になったり、正教徒の墓が倒されたりするなどの被害もあった。正教徒であるがために店に客足が途絶えてしまい、仏教徒に戻る者も出た。日露戦争は仏教とキリスト教との戦いだと言って、ロシア正教会を攻撃する仏教徒もいたようである。

こうした「宗教間の戦い」という構図は今の私たちの目には全く愚かに映るが、当時のロシアは現に世界に対し、この戦争は「キリスト教徒対異教徒」の戦いであるとアピールした。それによって日英同盟にヒビを入れ、欧米での外債募集を阻害することを狙ったからである。そこで日本政府は、これは宗教間の戦いではなく「文明対非文明」の戦いである、という構図を提示し、むしろキリスト教、特にロシア正教をしっかり保護することによって、ロシア側の意図を打破しようとしたのである。

ロシア正教の宣教師、日本ハリストス正教会の創建者であるニコライが開戦後も日本に残留してくれたことは、日本政府にとっても都合がよかった。彼が退去してしまえば、この戦争は宗教的色彩を帯びることになってしまうからである。そこでニコライが外出する際には、護衛警官が付き添い、一時は宣教団の敷地やその周辺に一個中隊にも匹敵するかと思われる数の兵隊が配備されたという。当時のニコライの日記にも、教団を守る警察等に対する感謝の気持ちを述べた文章がある。

正教会自身も、自分たちが決して「露探」でも「国賊」でもないことをアピールするのに必死だった。正教本会事務所では、日露戦争が始まる前から刊行物を出して「日本国家への忠誠とキリスト教信仰は矛盾しない」ということを力説し、戦争が始まってからも冊子を刊行して「我は断じて露探に非ず我が日本帝国の忠良なる臣民なり」と主張している。

正教会の神学校教師たちは『日露軍用会話』を作成して軍に献上し、祖国への忠誠を表そうともした。ニコライも、日本に留まることを決めた際の訓示で、信者たちに、あなたたちは日本の勝利を祈りなさい、そしてもし戦いに勝ったならば感謝の気持ちを祈りなさい、という主旨のことを述べている。

だが、あえて注目しておきたいのは、日本のことを心底愛していたニコライも、戦争が始まって次々と日本軍の勝利が報じられるようになると、ロシア人としての愛国心を意識せずにはいられず苦悩したという点である。ニコライの日記には、日々の戦闘で日本軍が勝利したという報道を目にするごとにショックを受けたことが率直に書かれている。彼は、ロシア惨敗の知らせは気分が落ち込むので、今後は新聞を読むのは三日に一度にしようとも述べている。

彼は命をかけて日本人を愛し、一生を日本に捧げ、心から平和を祈りつつも、祖国ロシアを愛しく大切に思う気持ちも捨てきれず、たった一人で葛藤を抱えていた。彼は日記に「わたしの悲しみは複雑だ」「祖国のほうが愛しいし大切だ」とも書いている。私たちは「戦争と平和」について考えるうえで、こうした人間臭い苦悩がありうることにも正直に向き合わねばならないであろう。

平和と愛国心をめぐる「矛盾」は内村鑑三にも見られる。周知の通り内村は、日清戦争は「義戦」として肯定したが、それ以後は全面的に戦争に反対し、最後まで「非戦論」を唱え続けた。だが彼は、日露戦争時、旅順港での日本海軍の勝利を知ると「隣り近所全体に聞こえるほどの大声で、『帝国万才』を三唱しました」と知人に宛てた手紙でわざわざ書いている。私たちは、あの非戦論の内村でさえ戦時にあってはそのような心情や衝動に駆られたということを、謙虚に受け止めておくべきかと思われる。

内村は、聖書を引用して戦争を正当化する牧師たちを厳しく批判したが、多くのプロテスタントの牧師たちは日露戦争に協力的であった。新島襄の門下である海老名弾正は、当時の牧師のなかでも特に日露戦争を積極的に肯定したことで知られている。

同じく牧師である本多庸一と小崎弘道は、軍隊へ「慰問使」を送ることなどについて軍部と交渉し、軍人向け小冊子の配布、募金活動にも協力した。本多庸一と井深梶之助は、日本が正義の戦争をしているということを訴えるために、わざわざ欧米にまで行った。

小崎弘道は、全国宗教家大会で「この戦争は、人種の戦争でも宗教の戦争でもなく、ロシアが代表する16世紀の文明と、日本が代表する20世紀の文明との戦争である」と述べた。こうした小崎の発言を伝え聞いたニコライは、日記に「ロシア罵倒の熱心においてとりわけ際立つのはプロテスタントのコザキ(小崎)である」と書いており、複雑な思いを抱いていたことがうかがえる。

当時、日本国内のプロテスタント宣教師のなかにはロシアに対する嫌悪と軽蔑をあらわにする者も多く、ニコライはそれに強い反発を感じていた。ニコライは「プロテスタントの宣教師たちほど、ロシアを憎み、ロシアの不幸を願っている者はいない」とも書いている。傍目には同じキリスト教徒のあいだでも、当時の内実はわりと複雑だったのである。

矯風会が「慰問袋」

ところで、日露戦争時からは兵士たちに「慰問袋」が送られるようになった。慰問袋の誕生については諸説あるようだが、最も早く始めたうちの一つは、現在もあるキリスト教の婦人団体「矯風会」である。矯風会には早くから軍人課があり、軍人にキリスト教および禁酒主義を広め、兵士たちを慰藉する活動をしていた。日露戦争から慰問袋を送るようになったきっかけは、アメリカ矯風会の軍人課が米西戦争の時にこうしたものを送ったことを知ったためだったようである。なお、「慰問袋」という日本語の名称は、矯風会の機関紙『婦人新報』の編集者である山田弥彦が、自分が名付け親だと自負している。

また当時、牧師たちの戦争協力があった一方で、同じキリスト教徒のなかから日本で最初の良心的兵役拒否者も出ている。矢部喜好という人物である。彼は戦争がはじまるとすぐに召集されたのだが、入隊の前夜に連隊長宅を訪れて「自分は徴兵を拒否する者ではないが、神の律法を厳守する立場から、敵を殺すことはできない」と申し出た。当時の日本ではそんなことを言い出す者はいなかったので、連隊長は怒るより先に呆気にとられたようである。

結果的に矢部は禁固2カ月の刑を受け、その後は上官の説得などにより傷病兵の世話をする看護卒補充兵となった。戦後、彼はアメリカで神学などを学び、同胞教会に転じ、帰国後は牧師として琵琶湖周辺で伝道に従事した。平和論者としての運動だけでなく、子供や女性の教育、フィリピンに日本人教会を設立するなど、多彩な活動をした。

このように、後の世界大戦の前段階となる日露戦争においても、宗教家はさまざまな形で戦争に協力し、または戦争に反対し、あるいは迫害を受けながら、さまざまな葛藤のなかを生き抜いてきた。同じ宗教、同じ信仰をもっていても、人格や生活環境が異なれば日々の佇まいにも違いが生まれるが、「戦争」という巨大な社会的事象に対する姿勢も実際にはさまざまであった。

こうしたことは、あらためて私たちに、信仰とは何か、平和とは何か、という問いを考えるきっかけになるであろう。