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公開シンポ「死刑のある国ニッポン」から

真宗大谷派北海道教区教化本部死刑制度問題班前班長 宮本尊文氏

2017年10月20日付 中外日報(論)

みやもと・たかふみ氏=1979年、北海道恵庭市生まれ。大谷大卒。札幌市清田区・真宗大谷派顯浄寺住職。大谷派北海道教区教化本部死刑制度問題班前班長、札幌刑務所篤志面接委員。

真宗大谷派北海道教区教化本部死刑制度問題班主催の公開シンポジウム「死刑のある国ニッポン」が、2016年12月7日、札幌市中央区の大谷派札幌別院で開催された。

パネリストに死刑廃止論者の森達也氏(作家・映画監督)、存置論者の藤井誠二氏(ノンフィクション作家)、そして宗教者として当派僧侶の楠信生氏(帯広市・幸福寺住職)を招き、当班班長であった私がコーディネーターを務め、150人を超える参加者に対しパネルディスカッションが行われた。

■死刑廃止論者・存置論者それぞれの見解

森氏は相模原事件を例に出し、「事件後、インターネット上で、加害者が犯行前に書いた『障害者に生きる価値はない、社会のために殺さなければいけない』といった内容の手紙に賛同する声が相当数上がった。その現象に対し、メディアは『殺されてよいいのちなんかない』『いのちは選別されるべきではない』『いのちは尊いんだ』として、加害者や賛同者の優生思想論に対し否定的な報道を行った」と述べた。

森氏はその報道内容に同意するとともに、メディアや世論に対し「じゃあ、なぜ死刑から目を背けるんだ」「死刑は殺されてよいいのちを選別するものだ」と、その矛盾を指摘し、さらに「論理的にはいのちを奪う死刑制度は廃止されるべきだ。しかし、多くの人は感情的に死刑を求める」「僕は感情的に考えても、いま生きている人を殺したくないと思う。感情的にも論理的にも考えたうえで死刑は廃止すべきである」と自らの見解を語った。

藤井氏はもともと死刑廃止の立場にいた。しかし、「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんをはじめ、多くの犯罪被害者遺族を取材する過程において、死刑制度が抱える数々の問題点(冤罪や非公開性)を指摘しつつも「殺された側」の痛みから、現在は存置を論じている。

藤井氏は「奪われるいのちは死刑で奪われるいのちだけではない。死刑を課された人によって無残にも奪われた全く罪のないいのちが死刑囚の何倍もある。そういったいのちと私は向き合ってきた」と自らの経験を踏まえ、態度を表明した。

また「遺族が、加害者から反省の言葉を聞くことなく、悲嘆に暮れ、生きる希望を失い、絶望の淵に生きている姿をこれまでたくさん見てきた中で、『感情として』死刑廃止は時期尚早であると考える。今は死刑を廃止すべきではない。数多の問題を残して廃止をするということは問題である」と犯罪被害後の遺族が課される生々しく痛ましい現実を語り、死刑廃止に対し慎重な姿勢を見せ、現状での存置を呼びかけた。

■宗教者として

楠氏は宗教者としての立場から、釈尊の「すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」という経典の一節を紹介し、「人を殺害したものは赦されざる罪を犯した。しかし、その罪に対する罰として、死刑という手段を用いる権利は人間にはないと考える。もちろん、大切な人を無残にも殺された被害者遺族にとって、加害者に対し応報的な感情を持つことは当然である。だが、刑罰として死刑が選択されることはあってはならないと思っている」と、被害者遺族の応報的感情を理解しつつも、いのちの存続の有無を決定する権利は人間にはないとして、制度としての死刑の見直しを論じた。

■私見

「死刑制度」を論ずるにあたり、そこには様々な立場の人間がいる。存置論者、廃止論者、そして無関心者。私もこの問題に携わるまでは、紛れもない「無関心者」であった。

無関心なゆえに、関わること、考えることをせず、一部の感情的世論に迎合し、殺人という罪に対し、死刑という罰が課せられるという、甚だ理にかなったルールだと観念的に思っていた。

私たち死刑制度問題班はこれまで、東京拘置所にて死刑未決囚・確定囚(処遇確定前)との面会を度々行ってきた。初めて面会する拘留者の関わった事件は事前にインターネットで調べるのだが、当初、そこから得る情報と、「殺人者」=「異常者」とカテゴリー化していた私の偏った感覚は、私の中の「殺人者」に対する異常性・危険性を増幅させた。しかし、そこで出遇った人たちは、私と何も変わらない「ひとりの人間」であった。それぞれに各別な背景を持つ「ひとりの人間」がそこで生きていた。

殺人という行為は決して赦されるべきではない。しかし、死刑は、殺人を行う制度であり、新たな悲しみや痛みを生み出す。

死刑存置論者は「死んで償え」と言う。だが、加害者の死が被害者遺族に対する償いになるのだろうか。被害者遺族が望むことは、「事件前に戻してほしい」ということであり、それは不可能である。加害者が苦しもうが、殺されようが、殺された人は帰ってこない。大切な人を殺された被害者遺族に対しての償いなどできるわけがない。

先日、ある知人の弁護士が「遺族感情と死刑を対立させてはいけない」と話していた。被害者遺族が加害者に「死んでほしい」と思う感情は当然である。だが、「感情」と「制度」を同列に考えてはいけない。このロジックがなかなか世間に受け入れられないのである。論理的な思考では被害者遺族の感情は解決できないのだ。

宗教者として、この「感情問題」を考えるとき、そこには人間の誰もが持つ「闇」ということに触れなければならない。

殺人を伴う事件には計画的なもの、衝動的なもの、また精神的なもの、といったように背景は種々各別である。一様にまとめることはできない。しかし、殺人という行為の背景にはそのような内情を問わず、「殺」という感情を生み出す人間の「闇」が存在する。

私たちは誰もが、決して絶えることのない貪り(貪欲)と怒り(瞋恚)を持って生まれてきた。森氏の「殺されてよいいのちなんかない」「いのちは選別されるべきではない」「いのちは尊いんだ」という論理的な思考と、殺人者に対し死を求める応報感情。「殺してはならない」という理性に対し、私たち人間に内在する「闇」は「殺」という感情を生み出す。誤解を恐れずに言えば、この感情は、殺人を犯した加害者にも、死刑を求める被害者遺族にも言えるのではないか。

親鸞は著書『一念多念文意』において、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと」と述懐されている。

「凡夫」とは、自らに潜在する「闇」を罪と感じ、懺悔する人である。「殺」という感情を生み出す臨終まで絶えることのない「闇」こそが、私たち人間に共通する課題であると考える。

以前、楠氏は「私たちはたまたま、人を殺さずこれまで生きてきた」と話していた。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞の言葉が頭をよぎる。人は業縁存在である。「縁」(外的条件)によって、自らに内在する「闇」が「殺したい」という感情を生み出し、殺人という「業」(行為)を創り得る存在なのだ。

殺人という行為は論理的には否定されなければならない。死刑は殺人を行う制度である。例外もあるが、殆どの死刑判決は被害者遺族の応報感情が種子となり、世論がその感情を支持する。だから現状では死刑制度は無くならない。

ならば、現状において最も重要なのは「被害者遺族の回復」ではなかろうか。もちろん、それは簡単なことではない。しかし、もしそれが可能ならば死刑制度は見直されるのであろう。そこには必ず宗教が必要となる。

藤井氏はパネルディスカッションにおいて「2000年以降、日本には全国的に被害者遺族の会や加害者家族の会ができている。しかし現状、そこにお坊さんの姿はないし、お寺に足を運ぶ人もいない。被害者遺族も加害者家族も宗教者を頼りとしない。理由は分からない。世界的には、そういった団体の中心には必ず宗教者がいる。そのことを踏まえて、私は日本でもそのような支援団体の中にジャーナリスト、心理学者、弁護士、検察官、社会福祉士だけではなく、そこにお坊さんがいてほしい。そういう光景を夢見ている。そういった情景が早く普通になってほしいと願っている」と言われた。

「宗教者はメディアだ」と森氏は言う。その言葉を受けて、発信媒体となり得る、現状この問題に必要とされていない全国の宗教者が、今後「被害者遺族の回復」に携わることができるならば、死刑制度問題は何かしらの変化を遂げると考える。

私も宗教者のひとりとして、この決して交わることのない、制度と感情の問題に今後も対峙していこうと思う。自らの持つ「闇」をともに懺悔して生きるという歩みがその活路になると信じて。