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謎の禅者、今井福山について ― 近代日本の宗教≪17≫

曹洞宗自法寺住職 小栗隆博氏

2017年11月15日付 中外日報(論)

おぐり・りゅうはく氏=1975年、岐阜県恵那市生まれ。駒澤大大学院博士課程単位取得。専門は日本禅宗史。共同執筆『蘭渓道隆禅師全集』第一巻(思文閣)、論文「『湘南葛藤録』について」(曹洞宗研究員研究紀要 第40号)など。

大正から昭和の初めにかけて、鎌倉建長寺と深く関わりを持ち、多くの著作、および雑誌記事の連載をし、当時一級の知識人として扱われていた今井福山という人物がいる。

筆者は、鎌倉の禅の公案集とされる『湘南葛藤録』についての調査の途上で、この人物の存在を知り、ありとあらゆる人名辞典等を調査したものの、その時点では筆者の調査の及ぶ範囲においては、その履歴をいっさい発見できなかった。

しかしながら著作物に関しては昭和20年までの禅仏教関係の雑誌媒体において、その名を目にしない月は無いというほどの名の知られた人物であったようである。

例えば、『大乗禅』(中央仏教社)に昭和8年から昭和20年まで、『正法輪』(正法輪協会→妙心寺)に昭和2年から昭和10年まで、『禅宗』(禅定窟→貝葉書院)に大正11年から昭和16年まで、『和光』(大本山建長寺)に大正7年から昭和16年の廃刊まで、『仏心』(萬松会、京都北野御前通一条下ル萬松寺)に昭和10年代に、それぞれ途中休載もあるが、ほぼ定期的に記事を連載している。いずれも当時の禅宗関係の代表的な雑誌に、錚々たる執筆陣とともに名を連ねている。このように、禅宗の近現代史を研究するものにとって、必ずその名を目にするであろう人物が今井福山なのである。

新聞記者の経験も

ここで、さまざまな調査で判明した今井福山の履歴を紹介する。生まれは安政元(1854)年、もとの名を土屋仲巖と称す。子孫の方によればおそらく愛知県名古屋市かあるいは一宮市辺りの出身であろうとされる。学歴に関しては、東京大学出身との記述が幾つか見られるものの、いずれも確定できる資料は発見できなかった。明治29年には、43歳にして浜松の方廣寺住職・今井東明の養子となっている。今井東明は、廃仏棄釈後から、明治14年の大火による伽藍焼失など、方廣寺の非常なる荒廃期を支え、また多くの弟子を有していたと伝えられている。あるいは今井福山もその弟子の一人であったのであろうか。

この後に、住所を東京に移しているが、このころに新聞記者として働き、海外の駐在経験も有していたとも子孫には伝えられている。大正5年、63歳ごろに伊豆に住所を移している。記者を退職した後に、当地で療養生活をしていたものであろうか。

大正7年に建長寺福山学院の教授となり、これ以降、さまざまな媒体に名が現れるようになる。なお、これまでは通名として「巖」を名乗っていたようであり、今井巖として当初は記載されているが、翌年には建長寺菅原時保の徒弟となり、福山の僧名を与えられたようである。建長寺の山号は巨福山であり、僧名としてこの文字を与えられ、さらに教師資格もほどなく授与されていることから、今井福山が建長寺において、いかに特別の扱いがなされていたかがうかがわれよう。

しかしながら大正12年の関東大震災以降は博多崇福寺、伊豆の諸寺院を転々とし、晩年は岐阜県揖斐郡の金光寺で過ごし、昭和20年1月26日に示寂した。数え92歳の長命であった。現在残されている著述の多くは、晩年の二十数年の間に書かれたものである。

建長寺に深く関与

今井福山の残した著述は膨大であるが、ここでその影響がどのようなものであったかを見てみたい。

まずは関係の深かった建長寺において、現在、蘭渓道隆の伝記として最もまとまったかたちで刊行されている、高木宗監『建長寺史 開山大覚禅師伝』(大本山建長寺、平成元年)を見てみたい。本書の序文および緒言によれば、これは建長寺史編纂事業の一環として成されたものであり、索引を含め全700頁の大著である。

位置づけとしては建長寺派にとって公式の開山伝と見なされる。同書中の蘭渓道隆の出自に関する記述には、従来の蘭渓の諸伝記にはいずれも記されていない、蘭渓の俗名、および父母の名前までが詳述されている。そしてその典拠として、雑誌『正法輪』の今井福山の記事を挙げている。しかしこの記事内容は出典が明らかではなく、信憑性は低い。

さらに、高木宗監が今井福山から、その40年前に提供されたものとして、「大覚禅師素問普説録」なるものが収載されている。その内容としては、蘭渓道隆が常楽寺において北条時頼に説き示したという「人字説法章」「兵字説法章」「心字説法章」なるものからなっている。これは今井福山の『趣味禅並大覚禅師法語』(岐阜市寺町天澤庵内 第17教区宗務所、昭和6年)に収載されているものを転載したと考えられ、これもまた今井の著述以前には遡ることのできない資料である。

今井福山の著述の特徴として、さまざまな新事実について、その典拠を示しつつも、その典拠の存在が今井の著作内でしか確認できないか、あるいは今井の著作以前には全く存在が知られていないものが突如として出現するということが非常に多い。そしてそれらがこれまで知られてこなかったのは、関東大震災で鎌倉が壊滅したためであるなどの理由を述べることもしばしばあるのである。

郷土史家は「偽作」

筆者の自坊は岐阜県東濃地方の旧苗木藩領下にある。苗木藩では明治維新期の苛烈なる廃仏毀釈のため、藩主遠山家菩提寺雲林寺以下15カ寺すべての寺院が破壊され、その後は地域全体が神道に信仰を変えた村もあれば、寺院を復興させた地域、あるいは中津川市蛭川村のように、新しく「神国教」というここにしかない新宗教が大正の初めに興されたという興味深い村もある。

その蛭川村に今井福山が現れ、地域史の調査に携わったという記録が有る。『蛭川村史』(蛭川村史編纂委員会、昭和49年)中に、村に伝わる伝説を紹介する項で、南北朝期に後醍醐天皇の王子や子孫がこの村に隠れ住んだという、いわゆる親王伝説を紹介しており、そのための調査を大正14年から今井福山が依頼されたという。おそらくは南北朝正閏論の影響もあり、地域の村おこし的な意図もあったであろう村の指導者たちが熱心に調査に携わり、ついには南朝神社が建立されるに至った。

しかし今井の持参する資料などに疑義を呈した山本栄一という郷土史家があり、昭和14年ころまで今井との間に激しく論争が行われたという。山本は今井の提示する資料の矛盾点や、その資料をそれまで誰も目にしたことがなかった点を挙げ、それらが偽作ではないかとまで言い切っている。

創作で隙間埋める

今井福山の人となりについては、各所に大量に残されている遺墨に接するに、非常に書に通じ、好んだ人物であったようで、その書風は臨書を徹底的に学び、その精髄を身につけていたことが分かる。またたいへん子ども好きな人物であったようで、幼少時に今井福山に会ったことのある方たちは皆、よく菓子をもらったりかわいがってもらった印象を語られる。そしてその著述に接するに、今井の博覧強記ぶりには驚嘆するよりほかない。

しかしそこで、残念ながらも資料の隙間を、自らの創作で埋め込んでいくという著述の方法を用いているのである。そのために、そのことが却って後世の学者を惑わすほどの記事となって残されてしまったのである。筆者は『湘南葛藤録』を調べる過程で、この今井の手法にどれほど苦しめられたか分からない。

今井の生きた時代は、大正から昭和初期の、日本全体が文化的経済的に余裕のある状況下で、頼りになる知識人としての要請を受け、求められるままに自由に著述をしていたのかもしれない。だがやがて国全体が戦争に向かう中で誰もが余裕を失い、さらに終戦直前に亡くなったことで、時代の混乱と共にその存在を忘れ去られてしまったのであろう。

あまりにも謎の多い今井福山とは、大正末から昭和初期にかけての時代の要請により現れ出た人物であり、そしてその著述であったという捉え方では暴論であろうか。たとえ彼の残した著作群が、多大なる疑惑を孕むものであったとしても、少なくともこのころの時代の空気を感じることのできる史料ではあろうし、その特異な生き様は大変に興味深いものである。