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発掘調査成果から探る山科本願寺の実像

京都市埋蔵文化財研究所調査課担当係長 柏田有香氏

2017年11月22日付 中外日報(論)

かしわだ・ゆか氏=1979年、大阪府生まれ。立命館大文学部日本史学専攻卒。京都市埋蔵文化財研究所調査課担当係長。山科本願寺跡の他、京都市内の多数の遺跡調査に携わる。
山科本願寺の概略

東山の大谷本願寺を追われて以後、各地を転々として布教活動を行っていた本願寺8世蓮如は、文明10(1478)年、現在の京都市山科区西野の地で山科本願寺の造営を開始し、悲願であった本願寺再興を遂げた。山科本願寺は壮大な規模と財力を誇り、一時は将軍家や有力武家をしのぐほどの繁栄ぶりであったとされる。しかし、蓮如の死後、本願寺10世証如の代の天文元(1532)年に管領細川晴元率いる軍勢によって攻撃され焼け落ち、大坂へ移転することとなった。

山科本願寺の寺域は土塁と濠で囲まれ、阿弥陀堂、御影堂をはじめとした主要堂舎の置かれた「御本寺」、有力末寺の坊舎が置かれた「内寺内」、門徒の居住区などがある「外寺内」の三つの郭で構成されていた。阿弥陀堂と御影堂を並立させ、前庭を広くとる配置は山科本願寺が祖型とされ、現在の本願寺系各寺院に継承されている。

現在は遺跡中心部を国道1号線と東海道新幹線が東西に貫く。地上にある山科本願寺の痕跡は国道1号線の北側にわずかに残る土塁や濠の一部と「外寺内」に位置する蓮如上人墓など数えるほどである。山科本願寺で初めて発掘調査が行われたのは新幹線敷設に伴う1962年の立会調査である。その後、現在までに22回の発掘調査と多数の試掘・立会調査が行われている。特に2011年度からは遺跡保存を目的として寺域中心部で継続的に発掘調査が行われ、重要な発見が相次いだ。主要堂舎の配置をある程度復元することが可能となったことに加え、寺を囲う土塁についてもその構造や構築時期についての新知見が得られた。その成果を受けて、16年には寺域中心部が国史跡に指定された。以下では、それら発掘調査の成果を紹介し、山科本願寺の実像を探りたい。

土塁の規模・構築方法・構築時期

山科本願寺の外郭を囲う土塁と濠については、これまでに複数の箇所で調査が実施されている。

「御本寺」南西角の調査では、土塁の高さは5~6メートル、基底部幅18メートル、上面には幅約2メートルの平坦部があり、斜面の最大傾斜角度は約45度であることが分かった。ここでは濠の跡も見つかっており、幅5~12メートル、深さは1・5~4メートルあったが、土塁が途切れている部分で特に濠の規模が大きくなっていることが判明し、当初から土塁が存在しなかった可能性が高い。また、この地には近年まで「オチリ池」と呼ばれた池が存在した。史料に記された天文元年の焼き討ちの際の侵入口「水落」に音が似ており、さらに土塁が切れていたとすれば、この南西角が侵入口であった可能性が高い。

「御本寺」西辺部の調査では、土塁高さは約4メートル、基底部幅約8・5メートル、斜面の最大傾斜角度は約40度、濠の幅は10~11メートルあることが分かった。南西角の土塁と比較すると規模はやや劣るものの、土質の異なる土を使い分けて崩落を防ぐ積み上げ方や、石組みの暗渠排水溝の敷設などの構築方法は共通し、高い土木技術があったことがうかがえる。

同じく「御本寺」西辺で2011~12年度に実施した調査では、土塁の構築に関して新たな知見が得られた。調査では地中に埋没していた土塁が見つかり、さらにその土塁の下から粘土採掘のための土取り穴が見つかった。穴からは、山科本願寺期の15世紀末~16世紀初頭に位置付けられる土器が多量に出土したことから、この土取り穴が埋められた16世紀以降に土塁の土が積まれたということが分かった。つまり、山科本願寺の造営当初は土塁が存在せず、明応8(1499)年に没した蓮如の死後に造られた可能性が高いということが判明したのである。

土塁が山科本願寺造営当初には存在しなかった可能性についてはすでに真宗史の草野顕之氏による指摘がある。草野氏は山科本願寺の堂舎に関する記述がある『御文』や『空善聞書』など複数の史料から、創建期に造営された堂舎とそれ以後に追加造営された堂舎の復元を試み、その結果、創建期の山科本願寺は本寺本願寺部分の阿弥陀堂、御影堂をはじめとした幾つかの堂舎のみが造営され、その部分は土塁ではなく築地塀で方形に囲まれていた。第二郭(内寺内)、第三郭(外寺内)は蓮如の没後、本願寺9世実如期に形成された。土塁の形態をとる時期については、大きな普請が行われたことが史料に記された時期を勘案し、永正年間(1504~21)ではないかと推測している。これは、土塁の構築時期が16世紀代であるという考古学的成果とも矛盾しない。

「御本寺」中心部の発掘調査

「御本寺」の中心部では10回の発掘調査が行われている。2005年に行われた調査では、泉を配する庭園や小規模な建物跡が見つかった。建物周辺からは千点を超える輸入陶磁器片や堆黒・金蒔絵など高級漆芸品の破片が多数出土した。山科本願寺には「御亭」と呼ばれる施設が存在したことが分かっている。「御亭」とは客人のもてなしや、宗主一族や重臣の遊興に用いられる建物で、現在の西本願寺飛雲閣に繋がる本願寺にとっては欠かすことのできない重要な施設であったとされる。発掘調査で見つかった建物は、庭が付属することや棚飾りとなる漆芸品や日常雑器ではない高級輸入陶磁器が多量に出土するという点からみて、この「御亭」の一部であった可能性が高いと考えている。

13年度に行われた調査では、石風呂遺構を中心とした重要な発見が相次いだ。敷地北側では、円形の石組井戸が見つかった。井戸の周囲には柱穴や礎石が散見され、建物が存在した痕跡も確認した。この建物の性格については、井戸の存在と、周囲から炭化米が出土したことなどから炊事に関わる施設と推測される。また、井戸からは厚い壁土や炭化米の塊が多量に出土しており、米を貯蔵した土蔵の存在も想定できる。これらの遺構の南側で、掘立柱建物・石風呂・竈・土間・井戸で構成される風呂関連遺構群が見つかった。石風呂とは、粘土と土で固めたドーム状の室の中で生木を燃やした後、燃えかすを掻き出し、そこに筵を敷いて水をかけ、蒸気を発生させて熱気浴を行うサウナのようなものである。全国的にみても、これまで発掘調査での検出例はなく、貴重な発見として現地公開時には400名以上の見学者が参加した。さらにこの石風呂は、出土位置から見て『実如上人闍維中陰録』や『本願寺作法之次第』に記される「野村殿(山科本願寺のこと)の風呂」であることはほぼ間違いない。『本願寺作法之次第』には利用者や入浴方法が具体的に記されており、「御住持(宗主)」のほか、「五山の長老」「御内衆(家臣)」「一家衆(宗主の一族)」なども利用したことが分かる極めて重要な遺構であり現地保存されている。

「御本寺」内での堂舎配置の復元

前記の石風呂の南側では、11年度調査で建物と建物を結ぶ廊下状の遺構、12年度調査で石組溝を配した坪庭が見つかっていた。05年度調査の「御亭」と推測される建物を含め、約200メートル四方の範囲にこれらの遺構が集中している。風呂の南に「御亭」の庭や建物があり、それら建物から廊下を通り、坪庭を眺めながら石風呂へと到る経路が想定でき、その北側には炊事施設や蔵がある。これらの施設は、一般門徒には開放されない本願寺の私的空間であると推測される。そうした空間とは、本願寺の寺域の中のどこに位置するのか、いまだ発見されていない阿弥陀堂、御影堂との位置関係が問題となる。現在の東西の本願寺や安永9(1780)年に製作された『都名所図会』に描かれた西本願寺を見ると、南北に並ぶ阿弥陀堂、御影堂の裏手(西側)に居住施設や実務施設が集中している。現代の本願寺の堂舎配置が山科本願寺の系譜を引くとされることや、私的空間遺構群の西側には土塁が迫ることから、山科本願寺でもこの私的空間の東側に阿弥陀堂と御影堂が位置したことはほぼ間違いない。今後、山科本願寺の調査史上の最重要課題である両堂の発見が期待される。さらには、造営開始から焼亡までの整備や改修過程を遺構の変遷を基にしてより詳細に復元すること、調査数が少なく実態が不明な「内寺内」「外寺内」についても今後調査を進め、寺内町の人々の暮らしぶりを明らかにしていくことも我々発掘担当者に課された課題である。