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現代中国の高僧・浄慧師の『中国仏教と生活禅』日本語訳刊行

武漢大講座教授・郡山女子大教授 何燕生氏

2017年11月29日付 中外日報(論)

か・えんせい氏=1962年、中国湖北省の出身。東北大大学院研究科博士課程修了、博士(文学)。現在、郡山女子大教授。著書に『道元と中国禅思想』(日本宗教学会賞受賞)、『正法眼蔵』(中国語訳)などがある。

中国仏教協会前副会長、湖北省黄梅県四祖寺の前住職・浄慧師の『中国仏教と生活禅』が日本語に翻訳され、刊行された(本体価格8500円、山喜房仏書林刊)。『生活禅のすすめ』『人間らしく生きていくために』に続く日本語訳である。

浄慧師は中国版「社会参加型仏教」=「生活禅」の提唱者として知られ、日本にも何度か訪問されたことがある。しかし、2013年4月20日、肺炎のため他界した。

本書(原題は『中国仏教与生活禅』)は05年に北京の宗教文化出版社から刊行。内容は学術的な論文のほか、様々な機会での法話、会議でのスピーチなどが中心で、年代的には1980年代から90年代にかけて発表されたものがほぼ網羅されている。前2著と異なるのは、文革が終わり、仏教界に復帰して最初の著書であり、浄慧師の初期の思想を知るには本書をおいてほかはない、という点である。

日本語訳は、より内容を理解しやすいように大きな見出しをつけて分類し、内容の整合性から一部を割愛した。翻訳作業は6人で分担し、2年かけて進められた。

「一、仏教の現代的意義」には90年代に発表されたものが収録されている。内容をキーワードで示すと「人間仏教」「道徳」「現代社会」になり、この時期における著者の問題関心を知ることができる。中でも「真理と機縁にかなう現代仏教」の項は中国に返還される以前の香港で開催された国際学会で発表されたものであり、「人間仏教」についての著者の考えがよくまとめられている。会議では「伝統文化」とされる仏教がいかにして現代中国社会に適応できるかが議論された。この問題について著者の考えを述べた最も早いものになると思われる。

「二、中国禅と生活禅」は、禅宗の六祖慧能の『壇経』に関する論文と『無門関』や趙州について語った法話との2種類からなる。

20世紀前半、敦煌文書から敦煌本『壇経』のテキストが発見されて以来、『壇経』のテキストをめぐって日中両国の学者の間で様々な議論がなされているが、基本的に敦煌本を最古のものとする見解は一致している。80年代初め頃、相次いで公刊された中国の仏教学者郭朋氏の『隋唐仏教』『壇経対勘』『壇経校釈』でも、それまで議論されてきた『壇経』のテキストの問題を踏まえつつ、再び敦煌本が最も古いものだと主張されている。

郭朋氏の見解は「敦煌本『壇経』が最も古い」という大歌唱の中の一つに過ぎず、新しいものではないが、浄慧師は、そもそも敦煌本を最も古いテキストとする主張に異を唱え、それ以外の例えば恵昕本、とくに曹渓本の資料的価値を認めるべきだとの見解を表明している。浄慧師の主張は初期禅文献研究が大きく進展を見せている今日でも新鮮で説得力に富んでいる。

「三、生活禅サマーキャンプと若者」は著者が住職をつとめる柏林寺で行われた「生活禅サマーキャンプ」での法話記録の一部である。法話の相手は参加した大学生などの若者で、「生活禅」とは何か、「サマーキャンプ」とはどのような内容のものなのかを語りかけている。

「四、禅修のあり方」は「生活禅サマーキャンプ」に関わるものと、「禅修」つまり禅の実践方法や修行と生活の関係をどう理解すべきかについて著者が折に触れ述べたものである。

サマーキャンプの活動の一つに「禅堂坐禅」がある。中国では「禅堂」で坐禅するのは出家僧だが、サマーキャンプでは参加者全員に「禅堂」での坐禅を体験させている(最近はサマーキャンプでも使える一般向けの坐禅堂が用意されている)。そこでは柏林寺とゆかりのある趙州禅師の「狗子無仏性」の話が取り上げられ、分かりやすい言葉で解き明かされる。

「禅七講話」の「禅七」とは日本の禅寺の「接心」にあたるもので、7日間寺院で坐禅したり法話を聞いて修行僧と同じ生活を体験する在家信者向けの行事。講話の中で「今回の禅七法会の人数は去年の倍以上に増え、百二十人余りの居士にご参加いただきました」と紹介されており、現代中国の仏教事情を垣間見ることができる。

今日、中国では一部の在家の人々の間で「禅修」が静かなブームとなっており、寺院が場所を提供するなど積極的に取り組んでいる。それらは浄慧師が手がけた柏林寺での「禅修」の影響によるところが大きいと考えられる。「禅修のあり方」は、そのまま著者が提唱する「生活禅」の実践部分をなしているので、単なる理念にとどまらない実践思想としての「生活禅」の側面を知ることができよう。

特定の信者を対象とした「禅修のあり方」に比べ、「五、人間として如何に生きるか」は、どちらかと言えば一般在家の人々に向けられたもので、在家のままで人生をどう生きるべきか、仏教をどう学ぶべきかについて、より広い観点から分かりやすく語られている。

「人生修養の四大選択」の項には「生活禅サマーキャンプ」で行われる「普茶」(お茶を飲みながら質疑応答する茶会)での参加者との問答が載せられ、「在家の信徒が仏の教えを学ぶことについて」の項にも質疑応答が収められている。一問一答から現代中国の若者の仏教に対する関心の一端がうかがえる。

「六、戒律の現代的意義」は戒律や僧侶の集団生活、僧侶としてあるべき職責と理念について、僧侶に向けて講演などで語られたもの。中国の僧侶は基本的に出家主義であり、肉食妻帯は当然認められず、生活の場も寺院の中に限定されている。激しい社会変動を見せる現代中国で僧侶に求められるものは一体何か、また若い僧侶としてどう自己形成していくべきなのか、仏教のために果たすべき責任とは何かについて、著者自らの体験を踏まえつつ自分の考えを語っている。

最後の「七、越境する生活禅」は著者が中国仏教界を代表して海外を訪問した際、他の宗教指導者と行った対談やメディアから受けたインタビュー、日本の茶人との対談、自ら編集長をつとめる『法音』誌の読者からの質問に対して述べたものとなっており、著者の国際的な活躍ぶりが分かる。

フランス枢機大主教リュスティジェ氏との対談で「仏教は、すべての宗教が互いに許容し合い、尊重し合わなければならないと主張している。そうして初めて、各宗教間にこれまであった様々な問題を解決することができる」と語っている。また、日本茶道文化会長倉沢行洋氏から趙州和尚の「喫茶去」について質問を受け、「趙州和尚が対応したのは、いずれもその場のこと」だとし、「来と去は必ずしも空間上の転移を表す」わけではなく、「一種の心情の転換を表したものであって、分別心から無分別心へ転換したことを表したもの」と述べている。

趙州和尚の「喫茶去」を「当下」(その場のこと)と結びつけて解釈される点が新鮮である。著者が唱える「生活禅」にとって「当下」は重要な概念だが、それは単に時間的もしくは空間的な意味だけではなく、いわば迷いから悟りへ、という異質の二つのものが一念によって転換・昇華されるという意味もあるようである。また「生活禅」は「禅茶一味」を説く茶道とも相通じるところがあるとも語っている。浄慧師が唱える「生活禅」は、異なる宗教との対話や異なる文化との交流が可能であることが分かる。

浄慧師が亡くなってから、はや3年がたった。昨年4月20日に河北省石家荘市や柏林寺で開催された三回忌の記念行事に国内外から千人の参列者が駆けつけてきたという。遺憾ながら筆者は校務のため参加できなかったが、学友諸君の協力を得ながら、師の没後3周年に当たる今年に本書の日本語訳を日本で出版できたことは、いささか慰めとするところである。

しかしながら分担者の一人、西村玲さんが昨年2月に急死した。西村さんは近世日本仏教の研究者として知られるが、東北大学文学部在学中の第2外国語は中国語であり、日本語の表現力に定評があるため、本書第一部の「真理と機縁にかなう現代仏教」を翻訳した他、全員の日本語訳原稿の添削を担当してもらった。あまりにも突然な悲報に共訳者一同は本当に驚き、互いにメールなどでその訃報を確認し合った。もうすこし早く出版できればよかったのにと無念の気持ちでいっぱいである。

西村さんの死は日本思想史学界、日本宗教学界にとって大きな損失である。我々は、良き友、良き後輩を失った衝撃からいまだに完全に立ち直ることができないが、彼女の協力のお陰で本書は出版することができた。本書は西村さんの最後の仕事である。ご冥福をお祈り申し上げたい。