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松下幸之助による寺院への寄付活動

PHP研究所主事 坂本慎一氏

2017年12月6日付 中外日報(論)

さかもと・しんいち氏=1971年、福岡県生まれ。大阪市立大大学院経済学研究科後期博士課程修了、博士(経済学)。専門は日本経済思想史、近代仏教。著書に『渋沢栄一の経世済民思想』『玉音放送をプロデュースした男 下村宏』『戦前のラジオ放送と松下幸之助』など。
浅草寺雷門の再建 名の非公表申し出

松下電器(現パナソニック)の創業者であった松下幸之助(1894~1989)は、生涯にわたって仏教各宗派に多額の寄付をした。年間納税額1位を合計10回(歴代1位)記録した松下は、戦後日本においてもっとも財を成した人物であり、仏教界への寄付においても群を抜くと言える。

一般に日本の財界人は、寄付行為をあまり公にしたがらない傾向にある。昭和33(1958)年12月11日、松下が浅草寺雷門の再建費用2千万円以上(現在価値で約1億5千万円)を寄付すると申し出た際、貫首の清水谷恭順氏に対し、「なるべく名前を出さないで下さい」と述べている(『雷門昭和再建誌』)。財界からの寄付で通常知られているものは、一部にすぎないと言えよう。

喜捨の実例

松下による寄付の例として、ここでは天台宗の寺院を二つ紹介したい。

京都で松下は三十三間堂奉賛会信徒総代として活動した。同じ明治27(1894)年生まれで親友でもあった太田垣士郎・関西電力社長が中心となり、財界有志で妙法院を盛り立てようとしたのである。

三十三間堂は、明治初期の廃仏毀釈により甚大な被害を受けたのち、昭和初期から仏像の修復作業が始まり、昭和30年代になってようやく観光事業を積極的に展開しようとしていた。妙法院門跡の三崎良泉氏の記録によれば、松下は昭和32(1957)年12月2日、100万円(現在価値で約600万円)を寄付している(『風來門自開』)。昭和37(1962)年3月20日に松下は、「三〇〇〇万円の銀行借金を寺債によって返済するという話であったので、自分も賛成し、うち一〇〇〇万円(現在価値で約5千万円)をもってあげる旨伝えた」と述べた記録がある(PHP研究所内部資料『松下会長日誌』)。同年9月14日、松下は同寺院より宸翰の進贈を受けており、これで寺債抹消という形にしたのであろう。同年12月26日、三崎氏はPHP研究所を訪問し、親交を深めている。

平泉の中尊寺には、茶室・松寿庵を寄付した。寄付当時の貫首であった今東光氏とは、さかのぼる昭和30(1955)年ごろにはすでに面識があり、懇意になったのは昭和35(1960)年、雑誌『財界』2月1日号の対談がきっかけと思われる。

昭和42(1967)年7月12日、今東光夫妻は裏千家の千宗室氏(現千玄室氏)とともに、PHP研究所を訪れている。松下はこの時、中尊寺に茶室を寄付したいと申し出たのであった。金額は不明であるが、同じころ四天王寺に寄付した茶室・和松庵はひと回り大きく3020万円だったので、2千万円以上(現在価値で約1億円)と推定される。

松寿庵は単独の建物ではなく、本堂や庫裡と直接つながっており、寄贈は寺院の増築工事を負担した形であった。中尊寺もまた、廃仏毀釈の傷跡を戦後まで引きずっていたのである。今氏は「松下さんによって初めて東北六縣に誇る名席が残る」とし、「請ふ。わが山房に来って茶を喫せられよ。すなはち四疊半の茶席にあって横に四世界を鋪き、竪に一乾坤を蓋う底を掴み給へ」と述べていて(「松寿庵の記」『松下真々庵茶室集録』)、これによって在家の人を集めようとした意図が読み取れる。二人はその後も長く親友であった。

数々の寄付の内容を見ると、集会所となる施設(高野山大松下講堂など)や観光資源となる建造物(四天王寺の極楽門など)を寄付することが多い。寺院がこれらを積極的に活用して人集めを行い、観光収入が得られるように初期投資を援助した形である。

真言宗への寄付では、高野山金剛峯寺、紀三井寺、信貴山朝護孫子寺、醍醐寺、泉涌寺、根来寺に寄付の記録やその形跡がある。松下電器の会社としての菩提寺は、高野山西禅院としていた。

奈良の寺院では薬師寺に多額の寄付をしており、松下が提唱して高田好胤管主が創始した「日本まほろばの会」は、「薬師寺まほろば塾」として今日も継続されている。末寺の少なかった臨済宗大徳寺の復興にも協力し、管長代務者の立花大亀氏とは終生懇意であった。海外布教の援助としては、南禅寺の柴山全慶管長、正眼寺の梶浦逸外管長、米ロサンゼルス高野山別院の高橋成通主監があげられる。

廃仏毀釈と松下の思想

松下が多くの寺院に寄付をした理由は、一つは日本の伝統文化を尊重したことがあげられよう。彼のこの種の活動は仏教以外にも、神道大系編纂会会長、伊勢神宮崇敬会会長、飛鳥保存財団初代理事長、霊山顕彰会会長など十指に余る。そしてその言説を見ると、次のような点も読み取ることができる。

得心できなかった 本願寺派門主の言

松下家は明治になってから浄土真宗本願寺派に転宗しており、先祖代々の宗派は松下自身も知らなかったようである。門主であった大谷光照氏とは、門徒の一人として昭和23(1948)年4月5日に本願寺で会った。京都市内でも路上で餓死者が出るほど困窮した終戦直後の状況を踏まえ、こうした時こそ仏教者は世を救う活動をすべきだと訴えたのである。しかし門主は、世を救う活動より、「生死観を究めるということのほうが大事」(『松下幸之助発言集』第四十二巻)と答えたという。松下は強い不満を感じ、後々にいたるまでこの逸話を繰り返し口にしている。

昭和26(1951)年9月、松下は自身が主宰する月刊誌『PHP』第50号に「人間宣言」を発表した。「人間はまことに偉大な存在である」と述べ、人間の尊厳を強く主張したのであった。これは、本願寺に行って得心できないものがあったので書いたと述べている。

同じころ大谷氏は自著の『教を仰ぐ』で『教行信証』信巻の一節を引き、「人間というものは、如何に行いすましても、結局清浄なるもの真実なるものには容易に近づき得ないばかりでなく、生活の現実は却って逆に虚仮の連続であって、まことにあさましいという外はない」と説いていた。松下の「人間宣言」は、門主に対する不満が込められていたと解釈できる。これは昭和47(1972)年5月「新しい人間観の提唱」に発展し、「まことに人間は崇高にして偉大な存在である」と主張したのであった。

仏教の多様性求め 衰退した宗派補強

明治初期の廃仏毀釈において、仏教界がもっとも痛手をこうむったのは、政府が寺領を没収したことである。山林経営によって経済的に成り立っていた奈良の寺院や天台宗、古義真言宗や根来寺、臨済宗の中小の寺院などは、托鉢や乞食も禁止されたことで収入を得る道が突然断たれ、壊滅的な被害を受けた。檀家からの収入もあり、末寺も多かった浄土宗や臨済宗妙心寺派、曹洞宗、日蓮宗、真言宗智山派・豊山派などは比較的軽傷で済んだと言えよう。これらに対し、檀家からの収入のみで成り立っていた浄土真宗は難を逃れ、明治時代の経済発展に乗って仏教界を席巻することになる。

こうした情勢を受けて、「浄土真宗は教えが近代的で優れているから隆盛になった」とか、「密教などは前近代的で迷妄的であったから衰退した」という主張が、広く説かれることになった。同様の考えは、戦後日本のインド哲学においても暗黙の前提になっていたようである。『歎異抄』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を重視し、人間を「あさましい」と説く大谷氏の思想は、本人が意図する以上に影響力を持ったのであった。

松下家が明治になって浄土真宗に転宗したのは、おそらく廃仏毀釈の影響と思われる。しかし松下にとって、門主の考えは妥当だと思えなかった。実際のところ、浄土真宗が寺領没収の影響を受けない経済構造だったのは、教えの優秀さが要因というよりは歴史上の偶然であろう。松下は衰退した宗派を補強することで、日本仏教の多様なあり方を求めたと考えられる。

現在まで、廃仏毀釈の研究は決して十分ではない。戦後財界人による寺院への寄付活動を調べると、その損傷が戦後まで残っていたケースが多いことに驚かされるし、現代の奈良の寺院や密教寺院が観光事業に力を入れるようになった歴史的経緯についても、あまり関心が払われていない。さらに言えば、近年は廃仏毀釈を軽視する宗教学者も多く、浄土真宗に偏った見方ではないか省みる必要がある。松下による寄付活動が宗派を超えて行われたように、われわれはより広い視野で仏教を見るべきであろう。