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ぽっくり往生の願い

佛教大非常勤講師 村田典生氏

2017年12月13日付 中外日報(論)

むらた・のりお氏=1967年、大阪府生まれ。佛教大大学院後期博士課程修了、博士(文学)。専門は民俗学。現在の所属は公益社団法人京都市観光協会。主な論文に「『縁結び』に見る民間信仰の現代的流行―流行神の展開とその要因の考察―」(『鷹陵史学第37号』)

先頃父が亡くなった。12年にわたる闘病生活の末のことだった。ここ数年はほぼ寝たきりで、1日おきの人工透析は車いすでの送迎だった。最後の数カ月は嚥下する力が無くなったため食事もすべてお粥かゼリーのようなものだった。シモの世話を含め母が面倒を見ていた。父も苦しかったであろうが、母もまた苦しかったであろう。

人は必ず死を迎える、これは避けようのないことである。ならばできるだけその死は苦痛なく、周囲の人々に手間をかけさせることなく迎えたいものと誰しもが考えるであろう。そのような利生を得るために人々が訪れるのが「ぽっくり寺」と呼ばれる寺院である。

突然の参拝者急増

奈良県には二つの著名な「ぽっくり寺」とされる寺院がある。香芝市の阿日寺と斑鳩町の吉田寺である。この二つの寺院は昭和40年代の後半に「ぽっくり寺」として参拝者が急増し一大ブームを巻き起こした。

それまではあまり注目されていなかった寺社や路傍の神仏が突然大勢の人々の参詣により活況を呈することがある。このような現象を「はやり神」と呼ぶ。「神」という字がついているが、神や仏、それ以外の信仰の対象となったものをすべて含む呼称であると考えていただきたい。

今回は斑鳩町の吉田寺を事例として紹介したい。正式には清水山顕光院吉田寺という。ここは筆者が父の祈願のために平成26年8月と平成28年5月に参拝し、ご縁を頂いたところでもある。

この吉田寺が流行した発端は昭和47年に有吉佐和子の小説『恍惚の人』がベストセラーとなり、翌年には森繁久彌らの出演により映画化がなされたことによる。この小説、映画のヒットによって現代でいう認知症に関心が高まった。そして森繁演じる茂造のようになってしまわないように、「ぽっくり往生」できるということがメディアで喧伝されたことで吉田寺が注目され、一日十何台のバスが毎日のように押し寄せたのである。吉田寺はブームとなったのである。

それ以前は近在の人々がひっそりと訪れていたようで住職の話によるとそれこそ「顔を隠すようにして参る人もいた」とのことである。それはたとえ病に伏す家族のことを思っての参詣であっても、世話するのが大変なので早く亡くなってほしいととられかねないという理由であったようだ。そのため皆ひっそりと参っていたのであろう。当時身内の老人を世話するのは女性が多かったからか参詣や祈祷に訪れるのは女性が多かったと聞いている。

ではぽっくり往生とはどのような状態を指すのであろうか。吉田寺の「祈祷のおすすめ」というパンフレットには「長く患うことなく腰・シモ・スソの世話にもならず、延年天寿を保ち安楽往生できるという霊験があります」とある。これをもってその定義としても差し支えないであろう。

この吉田寺の「ぽっくり往生」のいわれは恵心僧都源信とその母の往生にある。パンフレットによれば「恵心僧都が、母の臨終の善知識となり、除魔の祈願をした浄衣を着せられた。すると母は、苦しみもなく安らかに、称名念仏のなかに往生の素懐をとげられた」という。その源信が母の三回忌追善と末世の衆生救済のために、この地にあった栗の霊木に感得した丈六の阿弥陀如来こそが吉田寺の本尊だとされているのである。

この伝承から吉田寺では病者の身に着ける肌着や腰巻きを本尊の前で祈祷することで病者は「長く患うことなく腰・シモ・スソの世話にもならず、延年天寿を保ち安楽往生ができる」のである。その際、清水山という山号の由来となった湧水を香水とし、参詣した者全員で木魚をたたき南無阿弥陀仏を唱和する。祈祷後返却された肌着は蓮台がプリントされた包み紙で巻かれて金銀の一本の水引で締められている。肌着を病者に見立てた臨終行儀といえるであろう。

介護は嫁の家族観

「ぽっくり寺」が大いに流行していた昭和40年代後半はこうした祈祷を受けるために大型バスで各地から、老人や病者、そしてその家族、縁者が群参したのであろう。実はこの直前の大阪で万博が開催された昭和45年、日本の高齢化率は7%を超えたのである。世界保健機関や国連の定義では高齢化率が7%を超えると「高齢化社会」である。すでに大阪万博の年、日本は高齢化社会へ突入していたのである。

柳谷慶子はこの時代を「いわゆる『日本型福祉社会』の政策のもとで、家族(女性)を福祉の受け皿として位置付ける高齢者の在宅支援が進行していた時代」と呼び、『恍惚の人』において「仕事を持ち、家事をこなしながら舅の介護に忙殺される嫁への関心は高くなかった。嫁として舅の老いを看るのを当然のこととする家族観が支配的で、介護という言葉自体がいまだ生まれていなかった時期でもあった」と述べている。このような時代に吉田寺はぽっくり寺としての流行を見たのである。

ぽっくり寺に大型バスで群参した人々は、基本的に「老人や病者―①」と「その家族、縁者―②」に分けることができよう。①は自身のぽっくり往生を願っての参詣である。②は彼らが介護している①へのいたわりの気持ちの発露からであろう。①の症状改善・治癒・長寿であり、それらが見込めないときのぽっくり往生を祈念するための参詣である。そして②が参詣するもう一つの理由として挙げられるのが「介護生活からの解放」というものではあるまいか。

平成26年2月13日付の読売新聞に吉田寺を取材した記事が掲載され、その中にこのような一文があった。流行する以前は「住職の母が集まってくる女性たちの相談相手を務めていた」。曰く、「舅がぼけて、便を壁に塗った」「姑が寝たきりになって長い」という相談を受けていたというのだ。

日本型福祉の限界

これは柳谷の言う「日本型福祉社会」の「嫁として舅の老いを看るのを当然のこととする家族観」に当てはまる。そしてそれは当然とされた嫁たちの孤独を際立たせている。家庭や職場では誰にも相談できないのだ。そういう風潮であったために顔を隠して参拝するような状況があったのである。しかし、吉田寺へ参詣することによって同じ境遇の女性が集まり、苦労を吐露し、それを聞いてもらえる状況が設定され、面倒を見ている①のぽっくり往生を願うこともできるのである。①だけでなく、①を世話する家庭の女性(家の嫁)の負担軽減につながる利生を持つ寺院と本尊阿弥陀如来に関心が集まったのである。

この吉田寺は高度経済成長期で世の中が好景気に沸いているなか、間もなく破たんする「日本型福祉社会」のひずみの中で「恍惚」となった「老舅」を安楽往生させるだけでなく、その「介護に忙殺される嫁」たちを救済するために示現した流行神であるともいえる。その意味で吉田寺は現代的な特質を持つといえるのである。

神仏の流行、つまり「はやり神」は現世利益をその利生とすることが多い。ぽっくり往生は①の人々にとってはそれが『できる』というまさしく人生最後の現世利益であるといえる。そして②の人々にとっては①にぽっくり往生『してもらう』こと、そして世話や介護の負担の軽減という現世利益ととらえることができる。

現在吉田寺の流行の時期は過ぎ、穏やかな時間が流れている。神仏の流行は突然参詣者の急増を見た後、今度は突然流行が終息し忘却される。しかし、中には流行を繰り返して定着するものもある。吉田寺はすっかり「ぽっくり寺」として定着している。

ぽっくり往生の祈祷を受けた人々の家族や子供たちが「おかげさまで父は苦しまずに往生しました」とお礼参りに来られることも多いという。本当のところは当人にしかわからないことである。しかし、残された者が納得して看取ったということは、それはぽっくり往生がかなったということではないだろうか。筆者の父も最後は祈祷していただいた肌着を持って往生した。延年天寿というわけではなかったが、母も納得したぽっくり往生であった。