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獨湛の勧修作福念佛図説

浄土宗総合研究所研究員 田中実マルコス氏

2017年12月20日付 中外日報(論)

たなか・みのる・マルコス氏=1967年、ブラジル・サンパウロ市生まれ。91年にマウア工科大電気・電子科を卒業後、佛教大専攻科仏教学科に進み、同大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。法名・芳道。佛教大非常勤講師、龍泉寺住職。著書に『黄檗禅と浄土教 萬福寺第四祖獨湛の思想と行動』(法藏館)。
はじめに

念仏を千遍あるいは万遍を称えるごとに白圏の「○」をうずめるところから「消し念仏」としても知られている「念仏図説」は、江戸時代に念仏教化のために数珠のような機能をもたせたところの布教伝道の手段であった。獨湛の『勧修作福念佛図説』は宝永年間(1704~11)から昭和初期まで10回にわたって印施されており、日本浄土教に大きな影響を与えたことが知られる。ここではその『勧修作福念佛図説』について紹介する。

1.獨湛とは

江戸初期、京都宇治に黄檗宗の総本山となる萬福寺を開いた隠元隆琦(1592~1673)は、長崎興福寺の逸然(1601~68)より渡来を4回も要請され、遂に断りきれず承応3(1654)年、門弟のみならず、彫仏師・仏画師・仏具工・縫工・建築技師など、30人と共に来日、近世中国仏教のみならず明代文化の一端を伝えた。臨済系のその宗風について、妙心寺219世虚欞了廓(1600~91)は「禅と念仏を双修する雲棲袾宏の宗風であろう」と述べ、随行の一人であった獨湛性瑩(1628~1706)については「工夫専一に勤める人」と伝えている。

後に木菴・慧林に続き萬福寺第4祖となる獨湛の人柄については、師の隠元が「獨湛には孝の徳があり、言葉を謹み、行動を慎む人であり、仏法のために疲倦することなく精進し、一処の主として恥じることのない人である」(『黄檗開山隠元老和尚末後事實』)と語っている。

来日した黄檗僧の多くが、日本仏教諸宗の僧と交流した。獨湛も特に浄土宗侶と道交を深めていた。例えば宗学・宗史の研究や宗典の校訂出版に尽くした浄土宗の学僧・義山や忍澂との出会いを通して、獨湛は善導の浄土教を知り、知恩院第42世白誉秀道(1631~1707)より無塵居士(本名廣野良吟)が模写させた當麻曼陀羅を見せてもらう。それを機に獨湛は大和當麻寺を参拝して化人が蓮糸によって織ったという伝説がある當麻曼陀羅に大きな感銘を受け、自らも模写して『當麻圖説』を刊行し、中国に紹介した。また獨湛が念仏教化用に印施した『勧修作福念佛図説』を、忍澂は2度も増刷して世に弘めている。

2.念仏図説の変遷

中国宋代に編集された宗暁の『楽邦文類』巻三「朱氏如一伝」には、欽成皇后の姪である朱(法名如一)が「擘窠婁書」(小圏が連続集合して蜂の巣のようになった図)を印刷し、施して人々に阿弥陀仏を誦することを勧めたとある。図説は十万声を満たすことができ、所化の数は20万もの人々が手にしたと述べている。また同じく宋代志磐の『佛祖統紀』巻第28には、咎定國居士(~1211)が常に念仏し、浄土の諸経を読んで、西帰社という念仏結社を結び、勧化のために念仏図説を印施したとある。また『佛祖統紀』には計公とよばれる鐵工が、70歳になろうとする時に両目を失明したが、里中の昝學諭(定國)は擘窠圖を印施して念仏を勧めた。計公は初めにその一図を受け、それを三十六万声で満たし、さらに念ずること四図に至ると両目が見えるようになったという。このように中国南宋時代(1127~1279)頃には念仏図説による教化が盛んに行われていたことが知られる。

日本では獨湛の念仏図説とは別に独自の念仏図説による教化が企画されていた。雲嶺桂鳳の『蓮会百万念仏図説述賛』には、師である雲洞(1693~1742)が元禄14(1701)年の秋に『丈六弥陀蓮会講百万念仏図説』を作成したが、人々がそれを信受しないことを恐れ、世に出さなかった。しかし宝永2(1705)年の春、獨湛が印施した『勧修作福念佛図説』を見て愚願と主旨を同じくする念仏教化であると思い図説を印施し、人々を教化したとある。このように獨湛の『勧修作福念佛図説』が日本における念仏図説印施による教化を展開させる先導的役割を果たしていたことが分かる。

3.『勧修作福念佛図説』の特徴

独湛の『勧修作福念佛図説』では最上段に横書で「勸修作福念佛圖説」と題し、その下に横書きで「南無阿彌陀佛」と記し、中央に雲上の弥陀三尊(阿弥陀仏の胸元に卍が記されている)の立像を配し、その下段に描かれた蓮台の上に「念仏弟子」という言葉が記され、その言葉と蓮台との中間には念仏者の名を記入する空白が設けられている。また図説の左右には長文があり、最下段には版行の由来とその意図が記されている。図説の四方周囲には千余りの白圏(○印)が念珠のように配されている。

江戸中期、法然院の第6世宝洲(~1738)は東北地方に活躍した貞傳(~1731)の伝記『貞傳上人東域念仏利益傳』を編纂したが、その巻下の「作福念仏図乃由来」では獨湛図説の左右の長文の典拠について、それが「雲棲袾宏(1532~1612)の山房雜録に載る所の●髏の図説と作福念佛の図説」を合わせたものであると述べている。

右側の長文は袾宏の「勧修作福念佛圖説」に基づくもので、作福つまり善をなして福徳を積めば人界や天界に生ずることができるが、生死を越えて不退の境地に到るには念仏往生が第一であることが述べられている。その後に32の福を挙げて、平静安穏のうちに身を持つ者は、時間ある毎に念仏を勤め、何か事があって苦悩に繋縛された者は朝晩に念仏して至心に発願して浄土に往生することを求めよ。平日福徳をなす機会に遇えば、それをなす。なしおわったならば振り返ってその福徳を憶念せよ。そしてなした福徳を浄土に回向して往生することを求願せよと述べている。

図説左側の長文は袾宏の『●髏図説』を引用し、生前の所有物は死後にまで付き従うことはないが、悪業は間違いなく付き随ってその人を苦しめる。そこから解き放つものが改悪従善洗心念仏であると述べている。

図説の最下部には「この念仏図説は中国では昔から用いられており、大清の康煕帝(1661~1722在位)の年中に至って、詔旨をうけて図説を世に刊行して、普く念佛を勧化することになった。予め得ていた一枚を無塵居士に与えた。居士はまだ日本にこのような図はないといって、鐫刻して流通することになった。天下の人に念佛させて福を修して浄土に往生させれば、その利益は無量である。念仏して千声ごとに一圏を塗りつぶし、白黄紅青黒の五色の順に塗りつぶすようにすればよい」と述べている。

4.日本仏教に与えた念仏図説の影響

獨湛によって喚起された日本における念仏図説印施の最初と思われるのは雲洞の『丈六弥陀蓮会講百万念仏図説』である。それ以降も獨湛の図説の影響を受けた多くの念仏図説が印施され、日本においては200年にわたって念仏図説を用いての念仏教化がなされたのである。

その一端を取り上げると、まず祐天寺蔵板の香誉祐海(1682~1760)『勧修百万遍十界一心願生西方作福念仏図説』がある。その他に獨湛の詩と銀椀鏡の識語を記載している『勧修作福百万遍二世安楽図説』がある。また天性寺印施の念仏図には標題はないが、阿弥陀仏を中央に配した浄土図の周囲には「念仏一遍んをもって此圏一ツをうづミ、四辺うづミおハれバ千べんとなる。十遍んにて一ツうづめハ一万ベン、百ぺんをもってすれバ十万遍んなり、千べんなれバ百万べんとなる也」とある(同じ物が多くの寺院から印施されている)。また天保年間(1830~44)頃に活躍した遊行僧義賢の『善導法然の来迎図』はその板木が増上寺に所蔵されているが、そこにも念仏によって白圏をうずめる作福念仏図の影響が見られる。また江戸期の念仏行者徳本の名号を組み合わせた念仏図説も数種印行されている。

このように獨湛の念仏図説が受容され変遷して、教化に使われていた。

●=骨偏に古